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慢心を戒める教訓

  • おいしいおかゆ(グリム童話)

    知っている者にとっては恵み、知らない者には災難!

    ストーリー

     むかし昔ある所に、貧乏な少女がお母さんと二人で暮らしていました。食べるものが何もないので森へ野イチゴを採りに行きました。
     森へ行くと見知らぬおばあさんと出会いました。おばあさんは少女が困っていることを知っていて、鍋を一つあげました。このお鍋は「おなべや、ぐつぐつ!」というと、おかゆをぐつぐつこしらえます。それから「おなべや、おしまい!」というと、おかゆをこしらえるのをやめるのです。
     少女はこのお鍋を持ち帰り、いつでもおかゆを作ってお母さんとおかゆを食べることが出来るようになりました。

     ある日、少女の留守にお母さんが「おなべや、ぐつぐつ!」と言うと、お鍋はおかゆをこしらえ始めました。お母さんはお腹いっぱいになったのですが、お鍋はおかゆを作り続けています。作るのをやめてもらおうと思いましたが、なんと言ったらよいかわかりません。おかゆがお鍋のふちからあふれて、そのうち家じゅうがおかゆでいっぱいになりました。
     その時、少女が戻ってきて、たった一言「お鍋や、おしまい!」と言ったら、お鍋はぐつぐついわなくなりました。

     娘は鍋の扱いを知っている。母親は知らない。
     知っている者にとっては恵み、知らない者には災難。こんな事例なんて山ほどある。法律、投資、試験、・・・等々。
     知識と経験の差が、幸福と苦難の分岐点だ。知らない事なら深入りしないほうが良い。

  • みそさざいと熊(グリム童話)

    情報収集の大切さ!

    ストーリー

     熊と狼が森を散歩していたところ、鳥のさえずりが聞こえた。熊は狼に「どんな鳥の鳴き声だろう?」尋ねた。
     狼は「あれは鳥の王様だよ!ご挨拶をしなくてはいけないんだ」と答えた。熊は「王様の御殿を見てみたい」というと、狼は「王様とおきさき様が、いなくなったら見に行こう」と言い、その場を通り過ぎた。
     しばらくして熊と狼が鳥の王様とおきさき様がいない時に、御殿を見に行きました。巣をのぞくと、みそさざいの雛が五、六羽いました。熊が「これが王様の御殿なのか」とバカにすると、みそさざいの雛たちは「馬鹿にするな、おぼえてろ!」わめきました。
      しばらくすると、みそさざいのお父さんとお母さんが帰ってきました。雛たちは熊に馬鹿にされたことを話すと、お父さんは「安心しておいで」と言うと、熊のほら穴に飛んで行き、熊に向かって「うちの子供たちをバカにしたな!ひどい目にあわせてやる、とけんかをしかけました。

     熊はけんかに備え狐を呼び出し「お前は知恵のあるやつだ。けんかに勝てるよう指図しろ」と言いつけたのです。狐は「私のしっぽが立っていれば、どんどん進んで下さい。しっぽを下ろしたら逃げ出すのですよ」と言いました。これを聞いていたみそさざいの仲間が、飛びかえってきて秘密をみそさざいに話しました。
     いよいよけんかが始まろうという日になると、みそさざいは蜂に「狐のしっぽの付け根を力まかせに刺してくれ」とお願いしたのです。しっぽの付け根を刺された狐はがまんしきれず、しっぽを股の間に挟みました。これを見た熊は勘違いしてほら穴へ逃げかえりました。
     その後、熊はみそさざいの雛たちにお詫びをしたそうです。

    情報を収集し上手に活用することで大きな成果につながった。会社組織においても情報は持っているに越したことはない。出来る限り多くの人とバランスよくコミュニケーションをとるように心がけることだ。相手に敬意を持って接すれば情報は集まってくる。それが何かの折に必ず役に立つことがあるのだ。

  • イソップ寓話の教訓No.364「母猿とゼウス」

    他人の評価と自分の価値!

    ストーリー

     ゼウスがすべての動物の子供の可愛さを比べる競争で、優勝した者には商品を出すことにした。

     神々は一人一人審査をしながら眺めていた。

     可愛い子を持つ母として猿もやって来たが、胸に抱くのは赤裸で鼻ぺちゃの子猿だった。

     その子猿を見て神々の間に、どっと笑いが起ったが、母猿が言った。

     「誰が優勝するかゼウス様はご存じでしょう。しかし私には何といってもこの子が一番可愛いのです。」

     ゼウスは外的基準に依存した判断をおこなった。神々もゼウスの評価基準に依存した。
     しかし母猿は「自分にとっての価値」を主張し、倫理的な抵抗をする。
     ゼウスが審査するという構図は、「権威による価値の決定」であり、母猿にとっては「権力による価値の押しつけ」に他ならない。
     組織の人事評価で「納得感」ではなく「押しつけ」と感じることは無いだろうか?
     一方的な見かたによる基準だけでは「本当に守るべき価値」を見落とす可能性がある。これに気づかないと組織が崩れてゆく。
     これは、制度が持つ画一的評価の限界だ。

  • イソップ寓話の教訓No.363「子供と絵のライオン」

    運命は変えられないが、態度は選べる。焦らず誠実に待て!

    ストーリー

     勇敢で狩りの好きな一人息子を持つ老人がいた。

     ある時、息子がライオンに殺される夢を見たので、正夢となって現実になることを恐れ、美しく頑丈な建物を作り、そこで息子を守ろうと考えた。

     建物の中には立派な調度品や心を楽しませるための様々な動物の絵も飾った。その中にはライオンの絵もあった。

     しかし息子は、建物の中にいるばかりで、気分もふさぎ込みがちだった。

     ある時、ライオンの絵の前に立つと「お前と親父の夢のせいで、退屈な建物に閉じ込められたままだ。どうしてくれる」と言うなり、絵のライオンを殴りつけた。

     すると釘が手にささり、激しい痛みと炎症を起こした。続いて高熱が発症し、亡くなってしまった。

     父親が息子をライオンから守ろうと立てた建物の中で、絵に描かれたものとはいえライオンに殺されてしまった。

    運命は変えられない。ダメな時はどんなに策を弄してもダメである。
    だからと言って自棄にになるような、感情に支配された選択をすると、運命を加速させる。
    「果報は寝て待て」のことわざどおり、焦らずに待つべきである。

  • イソップ寓話の教訓No.361「猟師と山鶉(ヤマウズラ)と雄鶏」

    収入の種は生き残る!

    ストーリー

     猟師が夕食を作っているところへ、突然に友人が訪ねてきた。

     友人の夕食も必要になったが、鳥かごは空で獲物は無かった。

     そこで、狩りのおとりに使っている山鶉を夕食にしようとしたところ、山鶉は命乞いしてこう言った。

    「ご主人様、私を食事に使ったら、これから先に狩りは、どうするのですか。鳥の群れを誰がおびき寄せるのですか?」

     猟師は山鶉を放し、雄鶏を捕まえようとしたところ、金切り声をあげてこう言った。

    「ご主人様、時を告げる私を食事にしたら、夜明けをどのように知るのですか。狩りに行く時間をどのように知るのですか?」

    しかし猟師が言うには

    「確かにお前は時を告げるので役に立つ。しかし、今は友人に食事を作らなくてはならないのだ!」

     二人のうち、どちらか一方が犠牲になるとき、収入の種になるものは生き残ることができる。・・・

     しかし、もし山鶉が犠牲になった場合はどうだろうか?
    猟師は、狩りのパートナーたる山鶉を犠牲にした。その結果、狩りがうまくいかなくなり、猟師自身が困窮する。そして、残された雄鶏も、時を告げる必要がなくなり餌食になってしまう。
     最後には、猟師という仕事が機能しなくなり消滅してしまう。

     実際にあった収益性と犠牲の話をしよう。歪んだ制度を放置した管理者が組織をつぶした話だ。

     ある企業の営業部では、顧客対応の要となる営業社員たちが、正社員としてしっかり配置されていた。彼らは日々、誠実に顧客と向き合い、成果を上げるべく努力していた。表面的には、営業部は「収益を生む中核部門」として機能しているように見えた。
     しかし、その裏側では、見過ごされた構造的な歪みが静かに進行していたのである。
     営業活動を支える事務処理部門は、コスト削減の名のもとに、アルバイトやパートタイマーで構成されていた。彼らは限られた時間と訓練で、複雑な業務をこなすことを求められていたが、当然ながらその品質には限界があった。
     結果として、営業社員が使うツールや資料は、精度や整合性に欠けるものとなり、顧客対応にも支障をきたすようになった。営業成績は次第に低下し、現場には焦りと苛立ちが広がった。
     それでも管理者は、営業社員の「努力が足りない」と叱咤激励を繰り返すばかり。構造的な問題には目を向けず、成績の低下を個人の努力不足にすり替えた。
     やがて、疲弊した営業社員たちは次々と退職していった。歪んだ制度を放置した結果、収益を生むはずの中核部門を自ら崩壊させてしまったのである。

    あなたの周囲はどうだろうか?
    「あなたの組織では、誰が犠牲になっているか?」
    「収益を生まない部門に、どんな価値を見出しているか?」
    「成果を求める前に、環境を整える責任を果たしているか?」

  • イソップ寓話の教訓No.378 「二つの壺」

    被害を受けないために!

    ストーリー

    土の壺と金属の壺が一緒に川を下っていた。

    土の壺が金属の壺に向かって言った。

    「あまり近寄らないでくれ。君が僕にぶつかたら、僕は壊れてしまうんだ!」

     独善的な権力者のもとでは、いつも被害を受けるのは弱い者だ。
     権力者が自分の価値観だけを「正義」として押し通すとき、他者の尊厳や限界は無視され、搾取がすました顔で行われる。

     サービス提供の現場でも、こうした構造は見られる。
     「顧客は神様」という文化のもとでは、サービス提供者が常に下位に置かれ、顧客の要求が絶対視される。
     「お金を払っているんだから当然だ」という理屈が、提供者の人間性や限界を踏みにじる言動を正当化してしまう。
     このような場面に心当たりはないだろうか。顧客が独善的な権力者のように振る舞い、価値観や都合を一方的に押しつけてくる。そのとき、提供者が「自分を守るために距離を取る」という選択は、逃避ではなく倫理的な自己防衛である。
     これは、壊れやすい土の壺のような存在が、自らの形を守るために距離を取るという話だ。
     壺は「触れるなら敬意を持って」と静かに語る。乱暴に扱われれば割れてしまう。だからこそ、あえて他人行儀で距離を保つことが、尊厳を守るための正しい行動なのだ。
     境界線を引くことは、関係を断つことではない。
     それは、関係の中で自分の尊厳を保ち、搾取を許さないための構造的な再設計である。
    そしてその選択は、弱さではなく、壊れやすさを知る者の強さだ。