投稿者: gray wolf

  • 日本の昔話の教訓「小僧と狐」

    対処する知恵を持つ!

    ストーリー

     昔々ある山寺に「ずいてん」という名の小僧さんがありました。
     和尚様がよそへ行って一人で留守番をしておりますと、狐が庫裡の出入り口へ来て「ずいてん」、「ずいてん」と呼んでいます。小僧さんが知らん顔をしていると、いつまでも呼んでいます。
     あまりに憎らしいので本堂の窓から覗いてみますと、狐は入り口に背中を向けて立っています。そうして太い尻尾で戸をこすると「ずい」という音がする。それから頭を戸にぶつけると「てん」という音がするのでありました。
     賢い小僧さんは早速戻ってきて、そっと戸口の脇にたって「ずい」という音がした時にがらりと戸を開けますと「てん」と戸を叩こうとしていた狐は、庫裡の庭へ転げ込みました。
     すぐにその戸を閉めておいて、棒を持ってきて狐を追いかけましたが、そのうちに狐の姿は見えなくなってしまいました。
     それから本堂の方へ行ってみますと、いつの間にか本尊のお釈迦様が二つあります。どちらが狐の化けたのやら、見分けることができません。
     「な~に、そんな事をしたってすぐにわかるさ。うちのご本尊様はお勤めをあげると舌をお出しになるから間違えっこない」と言って、ぽんぽんと木魚をたたいてお経を読んでいます。すると狐の化けたお釈迦様はぺろっと舌を出しました。
     「それでは、狐の化けたのは残しておいて、これから仏様にお仏供(おぶく)を差し上げましょう」と言って、さっさと台所へ向かいますと、後から狐の化けた本尊様が、のこのこと歩いてきました。
    「それでは、まず行水をあげましょう」と土間の大釜の中へ抱いて入れると、開かないようにしっかりと蓋をして、火を焚きました。和尚様が戻ってこられるまでに、狐のまる煮をこしらえたそうであります。

    ※庫裡:僧侶の居住する場所
    ※お仏供:仏前にそなえる米飯

     困難や理不尽な状況に直面したときこそ、冷静に対処する知恵が求められる。感情に流されず、状況を見極めて行動することが、最善の結果を導く鍵となる。
     もし打つ手が見つからないときは、無理に抗わず、他のことに意識を向けて辛抱するのも一つの方法だ。時間が解決してくれる場合もある。
     事態が落ち着いたら、なぜこのような状況になったのか、自分の言動を振り返り、原因を探ることが大切だ。過去の行動が今に影響している可能性もあるからだ。

  • 日本の昔話の教訓「にわか入道」

    自分だけは大丈夫と過信しない!

    ストーリー

     昔ある村で悪い狐が出て、いたずらばかりして困っていたところ、「おれは狐に化かされない」と言って威張っている男がいた。その男がよそから帰ってくると、川原で狐が木の葉を頭にのせて女になり、川藻を丸めて赤ん坊の形にして抱いているのを見かけた。
     「あの狐、人をばかすつもりだな。よし、どうするか見ていろ!」と言って、石を拾って投げつけると、それがちょうど赤ん坊にあたって死んでしまった。
     母親は泣いて怒って、子供を元の通りにして返せと言う。なんだ、おまえは狐じゃないかというと、ますます腹を立てて承知をしなくなった。
     そうしていつまでたっても狐にならないので、見れば見るほど人間の親子に思えてきて、大変なことをしてしまったと思うようになった。いろいろと言葉を尽くしてあやまったが、なかなか一通りの事では許してもらえなかった。
     男は「しかたがないので、坊主になって詫びをする」と言って、近くの寺まで一緒に行き、和尚様に頭を剃ってもらった。
     その和尚様の剃り方が非常に痛い。あまりに痛いので、やっと正気になって辺りを見回すと、もうさっきの母親も赤ん坊もおらず、和尚も寺も無かった。
     剃ってもらったと思った頭の毛は、みんな狐に食いちぎられていたのだった。

    「自分だけは騙されない」と過信することは、最も危うい落とし穴である。騙す者は、相手の心の隙や弱さに巧みに付け入り、動揺させて冷静な判断力を奪うのが常套手段だ。誰もがいつ被害者になる可能性があるという意識を持ち、心の準備をしておくことが、冷静さと防御力を保つ鍵となる。
     冷静さを保つためには、日頃から自分の感情や思考を観察する習慣を意識することも大切だ。
     自分自身を知ることは、最も確かな防御となる。

  • イソップ寓話の教訓No.281 「タナグラの雄鶏」

    負けたことで災難から助かることもある!

    ストーリー

     タナグラの雄鶏が喧嘩をした。気性が人間に似ているといわれる鶏だ。負けたほうは傷だらけで、鳥小屋の隅に身を潜めている。相手はさっそく屋根に跳びあがると、羽ばたきしながら勝どきをあげる。
     ところが鷲がこいつを屋根から捕まえて飛び去った。残った鶏は心おきなく雌鶏とつがいになった。

    ※タナグラ:ギリシャの地方の町

     負けても、悔しがる必要はない。敗北によって、思わぬ災難から逃れられることもある。そうした経験がないと感じるなら、それは運が良かったか、あるいは敗北によって得た恩恵に気づいていないだけかもしれない。
     だからこそ、たとえ勝ったとしても、有頂天になってはいけない。勝利の直後こそ、最も危うい瞬間なのだ。

  • イソップ寓話の教訓No.274 「善と悪」

    幸運は遅れてやって来る!

    ストーリー

     善は非力であったので、悪に追い立てられ、天に昇って行った。
     そしてゼウスに尋ねた。「人間の所に留まっているにはどうしたら良いか?」
     ゼウスは善に言った。「皆一緒になって訪ねるのではなく、一人一人で行くが良い。」
     このため、悪は人間の近くにいて絶えず襲ってくるが、善は天からゆっくりと下りて来るから、なかなか出会えない。

      不運は突然、集団で襲い掛かってくる。「一難去ってまた一難」という言葉のとおり、次々に起こり、しかも質が悪い。
     一方、幸運は一人ずつ、ゆっくりと天から下りてくるため、気づきにくい。誰もが、不運は続きやすく、幸運はめったに訪れないと感じたことがあるだろう。
     そんな時こそ、不運が自分に何を伝えようとしているのかを考えてみることだ。
     焦らず、忍耐強く待つこと。やがて、幸運は静かに降りてくる——そのように信じることが大切だ。
     不運の嵐の中で耳を澄ませば、遠くから善の足音が聞こえてくる。
     それは、あなたの静かな忍耐に応えるように、ゆっくりと近づいてくるのだ。

  • イソップ寓話の教訓No.271  「冬と春」

    歓迎される力とは!

    ストーリー

     冬が春をからかって、こんな悪口を言った。
     春が来たとたん、もう誰もじっとしていない。百合などの花を摘んだり、薔薇を額の飾りにしたり、かんざしにするのが好きな人は、野原や森へと繰り出す。また別の人は、船に乗り海を渡って、どこかへ行こうとする。それに誰も風のこと、洪水のことなど気にかけなくなる。
     それに対して、と冬は言葉を続けて、
     「私は有無を言わせぬ王のようだ!空を仰ぐことなく、地面に目を伏せ、震えさせてやる。時には終日、家に蟄居するもやむなしと思わせてやる」と言ったので、春が言い返した。
     「だからこそ、人間は君が去れば喜ぶのだ」

     権力や恐怖で人を従わせる者は、去ったときに安堵される。
    一方、人々に喜びや自由をもたらす者は、自然と歓迎される。
    人の心を動かすのは、力による支配ではなく、喜びを与えることなのだ。

  • イソップ寓話の教訓No.172  「蝙蝠(コウモリ)と鼬(イタチ)」

    その場しのぎの理論

    ストーリー

     蝙蝠が地面に落ちて鼬に捕まったが、今にも殺されそうになって命乞いをした。
     鼬は「すべて羽根のあるものとは生まれつき戦争をしているので逃がすわけにはいかない」と言った。
     そこで蝙蝠は「自分は鳥ではない。鼠だ。」と言って、逃がしてもらった。
     しばらくしてまた落ちて、別の鼬に捕まったが、見逃してほしいと頼んだ。
     今度の鼬は「鼠はみな仇的だ」と言ったが、自分は鼠でなく蝙蝠だと言って、またもや逃がしてもらった。
     こうして蝙蝠は名前を二度変えて、生き延びたのだ。

     「逃げる」という選択肢。
     トラブルに柔軟に対応し、その場しのぎで切り抜けることは、特に厳しい状況下では有効な戦略となる。機転は命を守る力にもなり得る。
     しかし、逃げることで一時的に問題を回避できても、それは根本的な解決ではない。
     その場しのぎを繰り返す者は、そもそも問題の本質に向き合う意志を持たないのかもしれない。
     いずれ、逃げ切れない局面に立たされるだろう。
     この寓話は、柔軟さと誠実さの間にある緊張を問いかけている。
    生き延びるために立場を変えることは賢明か、それとも不誠実か。
    私たちは、どこまで自己を変えて生き延びるべきなのか――その境界線を、蝙蝠の姿に重ねて考えさせられる。

  • イソップ寓話の教訓No.170  「病人と医者」

    形式的な励ましの毒

    ストーリー

     病人が医者に容態を聞かれ「異常に大汗をかいた」と答えると、「それは良いあんばいだ」と医者は言った。
     二度目に様子を聞かれ「悪寒がして止まらない」と答えると、「それも良いあんばいだ」と医者は言った。
     三度目にやって来て具合を尋ねるので、「下痢になった」と答えると、「それはまた良いあんばいだ」と言って医者は帰って行った。
     親戚の者が見舞いに来て、「具合はどうだ?」と聞くので、
     病人が答えた。「良いあんばいのおかげでもう駄目だ!」

     無責任な楽観主義や、形式だけの対応は、かえって害になる。
     特に、権威ある立場にある者が実態と誠実に向き合わず、空疎な言葉で済ませるとき――その言葉は、安心ではなく放棄になる。
     「良いあんばいだ」という繰り返しは、診断ではなく逃避の言葉となり、患者の苦しみを覆い隠す。
     この寓話は、言葉の責任と、権威の誠実さを問いかけている。
     形式的な言葉が繰り返されるとき、私たちはそれを信じるべきか、それとも疑うべきか。
    本当に必要なのは、言葉ではなく、向き合う姿勢なのではないか。

    類似教訓
    日本の昔話の教訓「二十三夜さま」

  • イソップ寓話の教訓No.98  「屋根の上の仔山羊と狼」

    立場は人を強くする!

    ストーリー

    仔山羊が屋根の上に登って、通りがかりの狼に悪態をついた。
    それに対して狼が言うには、
    「おれに悪態をつけるのはお前ではなく、その場所のおかげだ!」

    立場は人を強くする。
    たとえ最初は力のない者でも、時を経て組織や社会の中で高いポジションに就けば、その役割にふさわしい力を身につけていく。
    人は、責任や期待に応じて変化する――それが制度の中で生きるということだ。
    だからこそ、今は力のない後輩でも、いずれ自分の上司になるかもしれない。
    そのとき、過去の言動が「倍返し」として返ってくることもある。
    立場の変化は避けられない。だからこそ、今のうちに誠実に接しておくことが、未来の関係性を守る知恵となる。
    この寓話は、力とは個人の資質だけでなく、環境と役割によって育まれるものだと教えてくれる。

  • イソップ寓話の教訓No.89「ヘルメスとテイレシアス」

    試す者は、試される!

    ストーリー

     ヘルメスはテイレイシアスの予言が本物かどうか試してみたくなって、彼の牛を畑から盗んでおいて、人間に姿を変えて町へでかけ彼の家に行った。
     一対の牛がいなくなったとの知らせが入ったので、テイレシアスはヘルメスを伴って郊外へ出かけた。盗難について鳥占いをするため「何か鳥を目にしたら教えてくれ!」とヘルメスに頼んだ。
     ヘルメスは初めに鷲が左から右へ飛び過ぎるのを見たので、それを言った。
     ところがテイレシアスは「それは牛とは無関係だ!」と言う。
     次にヘルメスは烏が木にとまり、空を見上げたり地面をのぞき込んだりするのを見たので、それを説明したところ、テイレシアスが言った、
     「その烏は天と地にかけて証言しているぞ。お前さえその気になれば、私の牛が戻ってくる、とな!」

    ※ヘルメス 富と幸運をもたらす守護神と考えられた。
    ※テイレシアス 名高い盲目の予言者。

     人を試すとき、実は自分自身も試されている。
     悪事を働いた者が、被害者の前で無関係を装っても、その欺きは見透かされる。
     相手は、言葉ではなく沈黙の中で、いつ白状するのかを見極めている。
     試すつもりで近づいた者が、逆に誠実さや責任感を問われる立場になる――それが信頼の構造だ。
     一度でも欺きが露見すれば、信頼関係は当然に崩れる。
     この寓話は、知恵や予言の力とは、相手の行動だけでなく、その心の動きを見抜くことにあると教えてくれる。
    そして、誠実さとは、見られていないときにこそ試されているのだ。

    類似教訓
    イソップ寓話の教訓No.57「老婆と医者」

  • イソップ寓話の教訓No.56  「女魔法使い」

    既得権益が恐れる者!

    ストーリー

     魔法使いの女が神様の怒りを解く呪文やお祓いを売り物にして、またそれがよく当たり、相当なお金を貯めこんでいた。
     ところが人々は、この女が宗教の改革を企てるものだとして告発し、裁判を受けさせ、罪状をあげて死刑判決を下した。
     裁判所から引き出された女を見たものが言った、
     「おい、お前は神様の怒りを解くことができるのに、どうして人間の怒りを解くことができなかったんだ」

     自然現象の多くは、自然科学の知識があれば原因を解明できる。しかし、知識のない人々に対して呪術的な言動で説明すれば、信じてしまうこともある。人は未知に対して、しばしば恐怖を抱く。魔法使いとは、そうした恐怖に形を与える存在にすぎない。
     だが、この物語で魔法使いを滅ぼしたのは、呪術への恐れではなく、宗教に関わる者たちの既得権益だった。魔法使いに宗教改革の意図はなくとも、彼女の呪術が広まり、信頼を集めれば、宗教の影響力は次第に衰える。既得権益を守る者にとって、それは脅威となる。
     意図的であれ、無意識であれ、既存の秩序を揺るがす力を持つ者は、嫉妬や恐れの対象となり、排除される可能性がある。それが現実だ。
     人間の感情は、理不尽であり、時に神の怒りよりも制御が難しい。その力を過小評価してはならない。

  • イソップ寓話の教訓No.48  「ナイチンゲールと蝙蝠(コウモリ)」

    予防は過去を救えない!

    ストーリー

     窓辺につるされたナイチンゲールが、夜になると歌を歌っていた。
     蝙蝠が歌を聞きつけ、近くに来て「昼間は静かにしているのに、なぜ夜になると歌うのか?」と訳を尋ねた。
     ナイチンゲールは「これには深い訳があるのです。ある日、昼間に歌っていて捕まったので、それ以来、昼間に歌うのは懲りたのです」と答えると、
     蝙蝠が言った。
    「今ごろ警戒しても始まらないよ。捕まる前にすべきだよ!」

     困難に直面してから行動を改めても、すでに遅い。油断は命取りになる。
     とはいえ、窓辺につるされた鳥籠から、知恵と行動力で飛び立つ鳥がいるように、万一困難に遭っても、そこから抜け出す気概を持ちたい。
     予防は最善の策だが、遅れてしまったときこそ、意志と工夫が試される。

  • イソップ寓話の教訓No.47  「内臓を吐く子供」

    欠乏感は増幅する!

    ストーリー

     野原で生贄の牛を焼く人達が隣人を招いた。その中に貧しい女がいて、腹を空かした子供も一緒にやってきた。宴会が行われているあいだずっと、この子供はもつ焼きを食べ続けていたので、お腹がはちきれんばかりに膨らんだ。
     子供は「お母さん、内臓を吐きそうだよ」と言うと、
     母親が、それに答えて、
    「坊や、それはお前の内臓ではなくて、お前が食べた牛の内臓だよ。」

    欠乏感は、静かに、しかし確実に増幅する。
    「足りない」という感覚は、「もっと、もっと」と求め続け、やがて飽和を超えて、もがき始める。
    必要以上に詰め込んだものは、やがて痛みとなって、内側から響いてくる。
    欲望の充足は、時に苦しみの種となる。
    出世したい、出世したい。まずは課長、次は部長、そして役員へ。
    階段を昇るごとに、プレッシャーは重くのしかかり、あなたの体と精神を試し始める。
    果たして、それに耐えられるだろうか。
    欲望は、満たすことだけがゴールではない。
    むしろ、どう満たすか・どこで止めるか・何のために欲しているか――その問いこそが、満足への道を照らす。
    欲望を満たすことが目的になったとき、満足は、かえって遠ざかっていく。