投稿者: gray wolf

  • おいしいおかゆ(グリム童話)

    知っている者にとっては恵み、知らない者には災難!

    ストーリー

     むかし昔ある所に、貧乏な少女がお母さんと二人で暮らしていました。食べるものが何もないので森へ野イチゴを採りに行きました。
     森へ行くと見知らぬおばあさんと出会いました。おばあさんは少女が困っていることを知っていて、鍋を一つあげました。このお鍋は「おなべや、ぐつぐつ!」というと、おかゆをぐつぐつこしらえます。それから「おなべや、おしまい!」というと、おかゆをこしらえるのをやめるのです。
     少女はこのお鍋を持ち帰り、いつでもおかゆを作ってお母さんとおかゆを食べることが出来るようになりました。

     ある日、少女の留守にお母さんが「おなべや、ぐつぐつ!」と言うと、お鍋はおかゆをこしらえ始めました。お母さんはお腹いっぱいになったのですが、お鍋はおかゆを作り続けています。作るのをやめてもらおうと思いましたが、なんと言ったらよいかわかりません。おかゆがお鍋のふちからあふれて、そのうち家じゅうがおかゆでいっぱいになりました。
     その時、少女が戻ってきて、たった一言「お鍋や、おしまい!」と言ったら、お鍋はぐつぐついわなくなりました。

     娘は鍋の扱いを知っている。母親は知らない。
     知っている者にとっては恵み、知らない者には災難。こんな事例なんて山ほどある。法律、投資、試験、・・・等々。
     知識と経験の差が、幸福と苦難の分岐点だ。知らない事なら深入りしないほうが良い。

  • みそさざいと熊(グリム童話)

    情報収集の大切さ!

    ストーリー

     熊と狼が森を散歩していたところ、鳥のさえずりが聞こえた。熊は狼に「どんな鳥の鳴き声だろう?」尋ねた。
     狼は「あれは鳥の王様だよ!ご挨拶をしなくてはいけないんだ」と答えた。熊は「王様の御殿を見てみたい」というと、狼は「王様とおきさき様が、いなくなったら見に行こう」と言い、その場を通り過ぎた。
     しばらくして熊と狼が鳥の王様とおきさき様がいない時に、御殿を見に行きました。巣をのぞくと、みそさざいの雛が五、六羽いました。熊が「これが王様の御殿なのか」とバカにすると、みそさざいの雛たちは「馬鹿にするな、おぼえてろ!」わめきました。
      しばらくすると、みそさざいのお父さんとお母さんが帰ってきました。雛たちは熊に馬鹿にされたことを話すと、お父さんは「安心しておいで」と言うと、熊のほら穴に飛んで行き、熊に向かって「うちの子供たちをバカにしたな!ひどい目にあわせてやる、とけんかをしかけました。

     熊はけんかに備え狐を呼び出し「お前は知恵のあるやつだ。けんかに勝てるよう指図しろ」と言いつけたのです。狐は「私のしっぽが立っていれば、どんどん進んで下さい。しっぽを下ろしたら逃げ出すのですよ」と言いました。これを聞いていたみそさざいの仲間が、飛びかえってきて秘密をみそさざいに話しました。
     いよいよけんかが始まろうという日になると、みそさざいは蜂に「狐のしっぽの付け根を力まかせに刺してくれ」とお願いしたのです。しっぽの付け根を刺された狐はがまんしきれず、しっぽを股の間に挟みました。これを見た熊は勘違いしてほら穴へ逃げかえりました。
     その後、熊はみそさざいの雛たちにお詫びをしたそうです。

    情報を収集し上手に活用することで大きな成果につながった。会社組織においても情報は持っているに越したことはない。出来る限り多くの人とバランスよくコミュニケーションをとるように心がけることだ。相手に敬意を持って接すれば情報は集まってくる。それが何かの折に必ず役に立つことがあるのだ。

  • 熊の皮を着た男(グリム童話)

    誠実さ!

    ストーリー

     むかし昔、ある若造が兵隊で勇ましい働きをしました。小銃の玉が嵐のように飛んでくる中でも、いつでも先頭に立って進んだものです。戦争がある間は何でも順調でした。ところが戦争が終わると、兵隊は不要になり、お払い箱になりました。
     
     隊長から解雇を言い渡され、郷里へ戻ったものの両親はすでに亡くなり、兄弟たちは疎遠で「今更、お前の面倒を見ることは出来ない」と冷たく断られ一人で生きるしかありません。

     兵隊はさまよい歩き、ある荒野にさしかかりました。一本生えている木の下にしょんぼり座り込んで、自分の身の上をつくづく考えてみました。
     「銭は一文無し。覚えたのは戦争の小手仕事ばかり。だから平和になれば、自分には用がないわけだ。餓死することは見え透いているさ・・・。」

     その時、にわかにざわざわ音が聞こえ、辺りを見回すと、見たことのない男が目の前に突っ立っていました。
     「お前が困っていることは、ちゃんとわかっているぞ。だからお金をあげよう。だが、私も金を無駄にしたくないから、お金をあげる前にお前を試してみ見たいんだ。」
     兵隊は不思議に感じましたが「おれを試してみるが良かろう」と返事をしました。

     すると男が「お前の後ろを見てみろ」というので、兵隊は振り向きました。そこには大きな熊が兵隊めがけて跳びかかってくるところでした。
     兵隊は「鼻ずらに鉄砲を打ち込んで、うなれないようにしてやる!」というが早いか、狙いをつけて、熊の鼻づらに一発打ち込みました。熊は丸くなってひっくり返ったまま、ピクリとも動かなくなりました。
     男は「勇気はないこともないな。だが、もう一つある。これもやってもらわなくてはならぬ」といいました。 
     兵隊はこの男の正体が悪魔だとわかり答えました「おれが死んでから天国へ行くのを邪魔しないなら承知するが、邪魔するようなことならお断りだ!」

     悪魔は言いました「それは、お前の心がけ一つだ。お前はこれから7年の間、体を洗ってはいけない、ひげや髪の毛にくしを通してはいけない、爪を切ってはいけない、祈りを唱えてはいけない。お前に上着と外套をやるが、ずっと着ていなくはいけない。この7年のうちに、お前が死んだら、お前は私のものだ。もし生き延びたら自由になったうえ、金持ちでいられるだろう。」
     兵隊は、今の自分が生活に困ってどうにもならないこと、これまで何度も死ぬような目にあっていることを思いだし、覚悟を決めて悪魔の言うことを承知しました。
     
     悪魔は自分の上着を兵隊に渡して「この上着を着てポケットへ手を入れれば、いつでもお金がひとつかみづつ取れる」と言い、また熊の皮を剥ぎ取って
     「これをお前の外套にしろ。それから寝床もこれだ。他の寝床へもぐりこんではならぬ。お前はこの身なりにちなんで『熊の皮を着た男』という名をつけろ」というと、悪魔の姿は見えなくなりました。

     兵隊はその上着を着てポケットに手を入れてみると、なるほど、悪魔の言ったとおりでした。熊の皮を羽織って町に出て、自分の気が向けば、お金に糸目をつけず、どんなことでもやりました。一年目は人並みでしたが、二年目には髪の毛が顔中に覆いかぶさり、ひげは毛布の切れはし見たいなようでした。指には鉤のような爪が生え、顔には垢や汚いものが積もり、この人を見ると誰もが逃げ出しました。

     四年目に、どこかの旅籠へ行ったことがあります。宿の亭主はどうしても泊めたくないと言うので、ポケットから金貨をひとつかみ渡したところ、裏手の部屋をひとつ貸してくれました。ただし店の評判が悪くなると困るので、決して姿を見せないように熊の皮を着た男に約束させたのです。

     熊の皮を着た男が、日が暮れてから、たった一人ぽつんとして「どうか七年という歳月がたってしまいますように」と心底お願いしていた時、隣の部屋でなにやら嘆き悲しむ大きな声が聞こえました。戸を開けてみるとお爺さんが泣いているのです。そばへ寄るとおじいさんは飛び上がって逃げ出そうとしましたが、人の声をききわけ、親切な言葉をかけられたので、自分の心配のたねを熊の皮を着た男にうちあけるまでになりました。

     話を聞くと、おじいさんは財産を無くし、娘たちに食事も与えられない。宿賃も払えないので牢屋行きだと言うのです。熊の皮を着た男は、
     「お金はいくらでも持っているよ」と言って、宿の亭主を呼びよせ勘定を済ませたうえに、おじいさんのポケットへ金貨のいっぱい入っている財布を押し込んでやりました。

     おじいさんは恩返しに自分の3人の娘の中から一人選んで嫁にとってくれと自分の家へ連れてきました。
     長女はこの男をみると、驚いて逃げ出しました。次女は「以前やって来た熊の方がよっぽどましだ」と言いました。ところが末娘は「お父さんをすくってくれたのだから約束は守らないといけないわ」と言いました。

     熊の皮を着た男は、自分の指から指輪を抜いて二つに折りました。自分の方には末娘の名前を書き込んでしまい、のこり半分に自分の名前をしるして末娘に渡し、大切にしまっておいてくれと頼みました。それから男は別れを告げ、「私は、あと3年旅を続けなければならない。その時戻ってこなければ、私に義理立ては無用です。ですが、無事に戻ってこられるように神様に祈ってくれないか」と言いました。

     熊の皮を着た男は世界中を歩き回り、満7年経つといつぞやの荒野に帰ってきて木の下に座りました。間もなく風の音がざわざわすると悪魔が現れ、熊の皮を着た男の汚れを洗い落とし、髪の毛を櫛ですき、爪を切ってやりました。すると見た目が軍人らしくなり、以前より美しくなりました。

     元の兵隊さんへもどると、馬車に乗ってお嫁さんの家へ行きました。家についても誰も顔が分かりません。そこでお爺さんに末娘を嫁にくれないかと聞きました。おじいさんに呼ばれ、末娘が現れると、兵隊さんは、半欠けの指輪を取り出して末娘に渡しました。末娘が首にかけているもう半分の指輪を合わせると、ぴったりと合いました。「私はあなたと約束したお婿さんです。以前あった時は熊の皮を着ていたけれど、今は人間の姿を取り戻しました。」

     兵隊さんと末娘は結婚し、お金に不自由なく、幸せに暮らすことが出来たということです。

    若い時に、どんなに活躍していても、いずれお払い箱になる時は誰にでも来る。お払い箱になった時は惨めさ、悔しさ、ふがいなさ、世間の冷たさ、など感じる。
     自分が必要とされなくなった時、その時どのように考え行動するかで未来は変わる。ただし、自分の中の誠実さは失ってはダメだ!

  • トルストイ民話の教訓「人間はなにによって生きるか」

    人間に与えられたものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなにによって生きるか、トルストイは答えています。

    あらすじ

     神様から罰を受けた天使が地上に下ろされ、「次の三つの言葉がわかったら天へ戻るが良い」と言われた。 人間に与えられたものは何か、 人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか。
     地上に降りた天使が教会の隅で裸で座っていると、ある靴屋に助けられ自宅へ連れて行かれる。そこで、これらの言葉の意味を知ることになる。

    ストーリー

     ある靴屋が女房や子どもたちと一緒に百姓屋の一間を借りて住んでいた。この靴屋は靴を作ったり直したりして暮らしを立てていたが、少ない稼ぎのほとんどは食費に費やされるしまつであった。ある時、靴屋の手元に僅かばかりのお金がたまったので、村の百姓から掛取りしたお金と合わせて外套につける羊皮を買おうと村へ向かった。

     ところが、どこの百姓も金に困っていて掛取りがうまくいかず理由をつけて金は払わなかった。そこで靴屋は考えて、手持ちの金と足りない分は掛けにして羊皮を買おうとしたが、掛けでは皮屋が承知しなかった。靴屋は気晴らしにウオッカを飲んでしまうと羊皮は買わずに家路についた。

     帰り道、礼拝堂の後ろに何かが見えたので近寄って見ると、裸の男が座っていた。靴屋は薄気味悪くなり通り過ぎてい行ったが、その男がじっとこちらを見ているような気配を感じた。靴屋は「人が災難にあっているのに、見て見ぬふりをするのか。良くないことだ」と自分自身に言うと踵を返し、その男の方へ向かっていった。

     壁にもたれたまま目をあげることもできないほど弱っていた男に靴屋は自分の服と靴を履かせた。きっと何かわけがあるに違いないと思い、自分の家へ連れて帰ることにした。帰り道、靴屋は「外套を買いに出かけたのに、それを買えずに裸の男を連れて帰るとなると、女房はさぞ文句を言うだろうな」と考え気がふさいできた。

     靴屋の女房が家で帰りを待っていると、入り口の階段のきしむ音とともに靴屋と見知らぬ百姓らしき男が入ってきた。靴屋の息が酒臭いのを感じ、《外套を買うお金をこのごろつきと一緒に飲んだ挙句、のこのこ引っ張って来たに違いない》と考え、胸が張り裂けそうになるのだった。女房は二人がどうするかじっと見ているままだったので、靴屋は言った「早く晩飯の支度をしてくれ」。

     女房は腹を立て「酔っ払いに食べさせる物などないよ」と言っていたが、靴屋から事の顛末を聞きながら、ごろつきの方を見た途端に怒りは消えてしまった。そのあと食事を与えて話をしたが、身の上は明かさなかった。翌朝、靴屋が名前を尋ねたところ「ミハイル」と名乗った。靴屋はミハイルに靴の作り方を教えた。覚えが早く三日目にはずっと靴屋をしていたように働きはじめた。 
     一年もたつとミハイルの靴は評判になりそこら中から注文が来るようになった。

     ある日、見るからに立派な旦那が靴屋の家へ入ってきた。旦那は革を見せながら言った「この革で私の足に合う靴が作れるか?一年くらい履いても形の崩れない、縫い目の切れない長靴が必要なんだ!出来るなら引き受けて革を裁て。できないなら断って、革に手を付けるな。一年たっても切れもせず、形も崩れなければ、お前に工賃を払ってやる。」靴屋がこまってミハイルを見ると、ミハイルはうなずいて見せた。靴屋は注文を受けることにして、足の寸法をとった。

     ミハイルは靴屋に言われるまま、革を裁ち始めた。靴屋と女房はミハイルの革の裁ち方が注文通りの靴を作るための裁ち方では無いので変だと思いながらも、口出しをしなかった。しばらくすると一足のスリッパが縫いあがった。靴屋は声をあげた。「ああ、どうしたことだ。今まで一度も間違いをしたことは無かったのに。なんと言い訳したらよいだろう。」

     突然、誰かがドアを叩いた。窓の外を覗いてみると、さっき靴を注文した旦那の下男だった。下男は言った「旦那が急死したので靴の代わりに死人に履かせるスリッパが欲しいと奥さんから言われ、使いに来たんだ」。ミハイルは出来上がっていたスリッパを包んで下男に渡した。

     またある日、女が子供二人を連れてやって来て言った。「春になってから、この子たちが履く靴を作ってほしい。」二人の子供はよく似ている女の子だったが、一人の方は左足が不自由であった。
     女の話によると、この子たちは実のこどもでは無いと言う。隣どうしで住んでいた身寄りのない百姓の家で、父親は伐った木に押しつぶされて亡くなった、その週に生まれた双子なのだと。母親は貧乏で死んでしまったが、死ぬときに一人の子の上に転がり、片足を圧し曲げてしまったのだと。女には生後8週間になる男の子がいたので、二人の女の子を引き取り一緒に育てた。実の子供は二つで亡くなり、その後は子供を授かることは無かった。

     しばらく話したあと、女は帰っていった。靴屋がミハイルを見ると、ミハイルは上の方を見ながらひとりでニコニコ笑っていた。靴屋は側へ行き「ミハイル、どうしたのだね?」と声をかけると、ミハイルは立ち上がり靴屋と女房にお辞儀をして言った。「私が受けてきた罰を神様はおゆるしくださいました。私は神様の三つのお言葉がみんなわかりました。」

     一つ目は靴屋のおくさんから、二つ目はお金持ちのお客が靴を注文した時、三つ目はあの二人の女の子を見た時にわかったのです。靴屋は尋ねた「ミハイル、お前は何の科(トガ)で神様の罰を受けたのだい、神様のお言葉とはどんなものか私の教えておくれ。」
     ミハイルは言った「私は天にいる天使でした。神様に一人の女の魂を抜いてくるように言われ下界へ下りて来ると、一人の女が病気で寝ていました。ちょうど女の双子を生んだところだったのです。女は私を見ると、神様が魂を召すために使わせたと思い、こう言ったのです。『天使さま、私の夫は木に打たれて亡くなったばかり、私は身寄りがなく、この子たちを育ててくれる人がいません。ですから私の魂を持って行かないでください。』そこで私は神様の所へ帰り、こう申し上げました。『父親も母親もいなくては子供は育ちようがありません。その母親から魂をとってくることはできません。』

     神様がおっしゃるには『行け、そしてその母親から魂を取れ。そうすれば三つの言葉がわかるだろう。人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか。それがわかったら天へ戻るが良い。』
     私は地上に降り、その母親から魂を引き抜いてしまったのです。母親の死骸は転がって一人の赤ん坊を圧しつけ、その片足を曲げてしまったのです。私は取った魂を神様のところへ持っていこうとしたところ、急に風が起って翼が吹き飛び地面に落ちてしまい、魂だけが神様のところへ昇っていったのです。」

     近くに礼拝堂があったので入ろうとしたのですが、鍵がかかっていて入ることができません。仕方なく礼拝堂の脇に隠れいていたところ、一人の男が「この冬の寒さをどのように凌いだらよいか、妻子をどのように養ったらよいか」とぶつぶつ言いながら歩いているのです。
     私は飢えと寒さで死にそうだが、自分や女房の着る毛皮のことや、家族に食べさせるパンの事ばかり考えている人がいる。この人は自分のことを助けることが出来ないのだ。私のことをみると眉をひそめ、恐ろしい顔になり、通りすぎていったのです。
     ところが戻ってきたではありませんか。通り過ぎる時には死相が現れていたのに、戻ってきたときは生き生きして、その顔に神さまの姿を見たのです。その人は私に自分の服を着せ、家へ連れて行ってくれました。

     家では一人の女が迎えにでて、なにやら言い始めました。その口からは死の息が漏れ、呼吸もできないくらいでした。ところが、私を連れてきてくれた男が神様の事を思い出させました。すると女はがらりと人が変わって、ご飯を食べさせてくれました。女の顔から死相が消え、生き生きとしていたのです。私はその女の中にも神様を見たのです。

     「その時、神様の第一のお言葉『人間に与えられたものはなんであるかを知るだろう』とおっしゃった言葉を思い出しました。そして人間に与えられたものは愛であることを悟りました。

     私があなた方と暮らすようになって一年たったある日、一人の人が来て一年の間は形も崩れず、縫い目もほころばない靴を作ってくれと注文しました。私はその人の後ろに死の天使が見えたのです。今日の日が沈まぬうちに、この人の魂が召されることを知ったのです。
     そこで考えました「この人は一年先のことまで準備しているが、今日の夕方まで生きていられないことを知らないのだ。」そして神様の第二のお言葉「人間に与えられていないものは何か」という言葉を思い出しました。

     今、私は人間に与えられていないものはなんであるかを知りました。「人間には自分にとって何が必要かということを知る力が与えられていないのです。 」

     天使は神をたたえる歌を歌い始めた。その声で小屋は震え、天井は裂けて、一本の火柱が地面から天まで炎々と立ちのぼった。みるみると天使の肩に翼が生え、天に昇ってしまった。

     やがて靴屋が気づいたときには、小屋は元どおりになっていて、彼の家族以外には誰のすがたも見えなかった。

    人間に与えられたものは愛であること 。
    人間は 未来を予測できず、今の自分にとって何が必要かを知ることが出来ないこと。
    人間は人を必要とし、人から必要とされることで、生きることが出来ること。
    とトルストイは答えています。
     未来が読めないなら、読めないことを前提にした構造をどう築くか。あなたは、どのように考えますか。

  • イソップ寓話の教訓No.364「母猿とゼウス」

    他人の評価と自分の価値!

    ストーリー

     ゼウスがすべての動物の子供の可愛さを比べる競争で、優勝した者には商品を出すことにした。

     神々は一人一人審査をしながら眺めていた。

     可愛い子を持つ母として猿もやって来たが、胸に抱くのは赤裸で鼻ぺちゃの子猿だった。

     その子猿を見て神々の間に、どっと笑いが起ったが、母猿が言った。

     「誰が優勝するかゼウス様はご存じでしょう。しかし私には何といってもこの子が一番可愛いのです。」

     ゼウスは外的基準に依存した判断をおこなった。神々もゼウスの評価基準に依存した。
     しかし母猿は「自分にとっての価値」を主張し、倫理的な抵抗をする。
     ゼウスが審査するという構図は、「権威による価値の決定」であり、母猿にとっては「権力による価値の押しつけ」に他ならない。
     組織の人事評価で「納得感」ではなく「押しつけ」と感じることは無いだろうか?
     一方的な見かたによる基準だけでは「本当に守るべき価値」を見落とす可能性がある。これに気づかないと組織が崩れてゆく。
     これは、制度が持つ画一的評価の限界だ。

  • イソップ寓話の教訓No.363「子供と絵のライオン」

    運命は変えられないが、態度は選べる。焦らず誠実に待て!

    ストーリー

     勇敢で狩りの好きな一人息子を持つ老人がいた。

     ある時、息子がライオンに殺される夢を見たので、正夢となって現実になることを恐れ、美しく頑丈な建物を作り、そこで息子を守ろうと考えた。

     建物の中には立派な調度品や心を楽しませるための様々な動物の絵も飾った。その中にはライオンの絵もあった。

     しかし息子は、建物の中にいるばかりで、気分もふさぎ込みがちだった。

     ある時、ライオンの絵の前に立つと「お前と親父の夢のせいで、退屈な建物に閉じ込められたままだ。どうしてくれる」と言うなり、絵のライオンを殴りつけた。

     すると釘が手にささり、激しい痛みと炎症を起こした。続いて高熱が発症し、亡くなってしまった。

     父親が息子をライオンから守ろうと立てた建物の中で、絵に描かれたものとはいえライオンに殺されてしまった。

    運命は変えられない。ダメな時はどんなに策を弄してもダメである。
    だからと言って自棄にになるような、感情に支配された選択をすると、運命を加速させる。
    「果報は寝て待て」のことわざどおり、焦らずに待つべきである。

  • イソップ寓話の教訓No.361「猟師と山鶉(ヤマウズラ)と雄鶏」

    収入の種は生き残る!

    ストーリー

     猟師が夕食を作っているところへ、突然に友人が訪ねてきた。

     友人の夕食も必要になったが、鳥かごは空で獲物は無かった。

     そこで、狩りのおとりに使っている山鶉を夕食にしようとしたところ、山鶉は命乞いしてこう言った。

    「ご主人様、私を食事に使ったら、これから先に狩りは、どうするのですか。鳥の群れを誰がおびき寄せるのですか?」

     猟師は山鶉を放し、雄鶏を捕まえようとしたところ、金切り声をあげてこう言った。

    「ご主人様、時を告げる私を食事にしたら、夜明けをどのように知るのですか。狩りに行く時間をどのように知るのですか?」

    しかし猟師が言うには

    「確かにお前は時を告げるので役に立つ。しかし、今は友人に食事を作らなくてはならないのだ!」

     二人のうち、どちらか一方が犠牲になるとき、収入の種になるものは生き残ることができる。・・・

     しかし、もし山鶉が犠牲になった場合はどうだろうか?
    猟師は、狩りのパートナーたる山鶉を犠牲にした。その結果、狩りがうまくいかなくなり、猟師自身が困窮する。そして、残された雄鶏も、時を告げる必要がなくなり餌食になってしまう。
     最後には、猟師という仕事が機能しなくなり消滅してしまう。

     実際にあった収益性と犠牲の話をしよう。歪んだ制度を放置した管理者が組織をつぶした話だ。

     ある企業の営業部では、顧客対応の要となる営業社員たちが、正社員としてしっかり配置されていた。彼らは日々、誠実に顧客と向き合い、成果を上げるべく努力していた。表面的には、営業部は「収益を生む中核部門」として機能しているように見えた。
     しかし、その裏側では、見過ごされた構造的な歪みが静かに進行していたのである。
     営業活動を支える事務処理部門は、コスト削減の名のもとに、アルバイトやパートタイマーで構成されていた。彼らは限られた時間と訓練で、複雑な業務をこなすことを求められていたが、当然ながらその品質には限界があった。
     結果として、営業社員が使うツールや資料は、精度や整合性に欠けるものとなり、顧客対応にも支障をきたすようになった。営業成績は次第に低下し、現場には焦りと苛立ちが広がった。
     それでも管理者は、営業社員の「努力が足りない」と叱咤激励を繰り返すばかり。構造的な問題には目を向けず、成績の低下を個人の努力不足にすり替えた。
     やがて、疲弊した営業社員たちは次々と退職していった。歪んだ制度を放置した結果、収益を生むはずの中核部門を自ら崩壊させてしまったのである。

    あなたの周囲はどうだろうか?
    「あなたの組織では、誰が犠牲になっているか?」
    「収益を生まない部門に、どんな価値を見出しているか?」
    「成果を求める前に、環境を整える責任を果たしているか?」

  • イソップ寓話の教訓No.378 「二つの壺」

    被害を受けないために!

    ストーリー

    土の壺と金属の壺が一緒に川を下っていた。

    土の壺が金属の壺に向かって言った。

    「あまり近寄らないでくれ。君が僕にぶつかたら、僕は壊れてしまうんだ!」

     独善的な権力者のもとでは、いつも被害を受けるのは弱い者だ。
     権力者が自分の価値観だけを「正義」として押し通すとき、他者の尊厳や限界は無視され、搾取がすました顔で行われる。

     サービス提供の現場でも、こうした構造は見られる。
     「顧客は神様」という文化のもとでは、サービス提供者が常に下位に置かれ、顧客の要求が絶対視される。
     「お金を払っているんだから当然だ」という理屈が、提供者の人間性や限界を踏みにじる言動を正当化してしまう。
     このような場面に心当たりはないだろうか。顧客が独善的な権力者のように振る舞い、価値観や都合を一方的に押しつけてくる。そのとき、提供者が「自分を守るために距離を取る」という選択は、逃避ではなく倫理的な自己防衛である。
     これは、壊れやすい土の壺のような存在が、自らの形を守るために距離を取るという話だ。
     壺は「触れるなら敬意を持って」と静かに語る。乱暴に扱われれば割れてしまう。だからこそ、あえて他人行儀で距離を保つことが、尊厳を守るための正しい行動なのだ。
     境界線を引くことは、関係を断つことではない。
     それは、関係の中で自分の尊厳を保ち、搾取を許さないための構造的な再設計である。
    そしてその選択は、弱さではなく、壊れやすさを知る者の強さだ。

  • イソップ寓話の教訓No.359 「猿の真似をした驢馬」

    自分の役割を理解する!

    ストーリー

     猿が屋根に上って跳ねたり踊ったりしていたところ、それを見ていた男は笑いながら褒めていた。

     翌日、驢馬が屋根に上り跳んだり跳ねたりしたところ、屋根を壊してしまった。

     男は屋根から驢馬を引きずり下ろし、怒鳴りつけながら棒で驢馬を叩いた。

     背中の痛みに苦しみながら驢馬がうったえた、

    「きのう、猿は私と同じことをして笑いながら喜ばれていたのに!」

     自分の役割を理解する!驢馬の役割は荷物を運ぶこと。猿のように道化の真似をしても失敗するのは当たり前。人も自分の役割を果たせば周りから認められるだろう。見栄や嫉妬で自分の役割でないことを演じてもリスクを背負うだけ。

    ◎男の視点では・・・
     驢馬には荷物を運ぶという本来の役割がある。猿のように跳ねて見せようとしても、身体的な特性や期待される機能が違うため、失敗するのは当然だ。人もまた、自分の役割を理解し、それを果たすことで周囲から認められる。見栄や嫉妬で他者の役割を演じようとすれば、痛みや損失を背負うことになる。
    ◎驢馬の視点では・・・
     しかし、その「役割」は誰が決めたのか?驢馬が跳ねたのは、猿のように認められたいという願いだったかもしれない。にもかかわらず、驢馬は「猿と同じことをしたのに」と訴えても、その声は無視される。これは、評価が主体によって変わる構造的不公平を示している。行動の背景や限界を見ずに、結果だけで裁く社会の縮図だ。
    ◎たとえるなら…
    これは、異なる靴を履いた者に同じ道を跳ねさせる試練のようなもの。猿はスニーカー、驢馬は鉄の靴。同じ道を跳ねても、負荷も結果も違う。それなのに「猿はできたのに、お前はなぜ出来ない」と叱るのは、構造を無視した裁きだ。
     あるいは、舞台の裏方がスポットライトを浴びようとした瞬間に叱られる物語とも言える。「君は照明係だ。ステージに立つのは役者だけだ」と言われる。でもその照明係は、心の奥でこう思っていた。「私にも、光を浴びる瞬間があっていいはずだ」と。
     「自分の役割を理解する」ことと、「その役割が公正に設計されているかを問い直す」ことは、両立すべきである。
     驢馬が跳ねたことは、単なる失敗ではなく、認められたいという声なき叫びだったろう。その声を聞き取ることが、社会の構造をより公正にする第一歩となる。

  • イソップ寓話の教訓No.349「ランプ」

    上には上がいる!

    ストーリー

    ランプがアルコールのしみ込んだ芯から炎を出して

    「星よりも明るく、いろいろなもの明るく照らすことができる」と自慢した。

    ところが風が吹くと、たちまち炎は消えてしまった。

    側にいた人が再び火をつけてランプに言った。

    「さあ、ランプよ照らしてくれ。そして黙るのだ。星の光は風が吹いても消えないぞ!」

     上には上がいるのだ。自分のいる狭い世界では一番だったとしても、外の世界にでれば更に優れている者はいるものだ。無駄な自慢をせずに淡々と自分の役割に専念することだ。

  • イソップ寓話の教訓No.348「狼の将軍と驢馬」

    日本の政治家

    ストーリー

     狼の群れの将軍となった狼が皆のために法律を定めた。
     「もし何か手に入ったら、すべて公にして、皆に公平に分配する」と。そうすれば、ひもじい思いで共食いがなくなるだろう、と言うわけだ。
     そこへ驢馬が通りかかり、たてがみを振りながら言った。
     「狼の将軍は素晴らしい法律を定めましたね。ただ、昨日おれは見たよ。権力によって得たものを、こっそり懐にしまっていましたね。それはどういう訳ですか。」
     悪事のしっぽをつかまれた狼は、しばらくの間「記憶にない」と、とぼけていたが、証拠を突き付けられると、あっさり認め謝罪した。そして、その法律を廃止した。

     多くの国民は少ない収入で生活をやりくりしているが、その国民を下に見るように横柄な言動を行い、本当は誰がみても黒なのに、白だと言い続け、間違いを認めない、そして正さない。悪事がばれると批判を浴び、口先だけの謝罪を行い、本意でないふりをする。
    権力を利用して人知れず懐を肥やす。まさに日本の政治家だ。
     国会のやり取りを見てほしい。この話そのものが現実に起きていることが分かるだろう。
     「記憶にない」ととぼける狼。自民党の裏金議員は、まさに「こっそり懐にしまっていた」狼の姿と重なる。理想を語りながら、実際には権力維持のために制度を曲げる――この寓話は、疲弊した政治制度そのものを突いているようだ。
     「狼の将軍は、理想を語った。だが、理想を語る者が最も危険なのは、それを盾にして自らの行動を免罪する時だ。

  • イソップ寓話の教訓No.331 「犬と兎」

    惰性の取り組みに向上はない!

    ストーリー

    ある日、猟犬が茂みの中に入る兎を見つけた。

    猟犬は兎を捕まえようと茂みから追い立てたところ、兎は勢いよく逃げ出し、猟犬は全速力で追いかけた。

    ところが兎の方が足が速く、あっという間に逃げられてしまった。

    それを見ていた牧羊犬が言った。「お前は、それでも猟犬か?あんなに小さな兎がお前より速く走って逃げきったじゃないか。」

    それに答えて猟犬が言った。「おれは楽しみで追いかけたが、兎は災難から逃れようと全力で逃げたからさ。」

     惰性で取り組んでいては、向上は望めない。 全力で挑む者と、惰性で流す者とでは、上達の質も速さもまるで違う。 まして「本気じゃなかったから仕方ない」と言い訳するようでは、成長の機会を自ら手放しているようなものだ。
     たとえば、組織で行われる定例会議を思い出してほしい。 上司は数字を追い、部下に圧をかけるために会議を開く。 参加者は、毎週繰り返されるその場を「惰性の儀式」と感じながら、 仕事をしているふりを演じる。 外から見れば、チーム全員が目標に向かって努力しているように映るかもしれない。
     だが実際には、誰もが「無駄な時間」と感じながら、 その場の空気に身を委ねているだけだ。
      しかし、それは甘えだ。 その甘えが許されるのは、仕事の本質が問われていないからに過ぎない。 本気で走らなくても成立する仕事は、やがて淘汰される。 惰性で続く組織は、いずれ本気の個人や集団に追い抜かれる。
      だからこそ、今問うべきなのだ。「これは惰性か?それとも本気か?」 その問いが、質の転換点になる。