イソップ寓話の教訓No.84  「二匹のセンチコガネ」

説明責任と構造の限界

ストーリー

 小さな島で二匹のセンチコガネが牛の糞を食べて生きていた。
 やがて冬が近づくころ、一匹が「本土に渡って冬を過ごしたい。そうすれば一人残った君には餌が十分回るだろうし、もし食べ物がたくさん見つかれば運んできてあげるよ!」と言った。
 本土へ来てみると、水気たっぷりの牛の糞がどっさり手に入り、そこに留まって身を養っていた。
 冬が過ぎ、島に戻ったところ、彼は色つやも良く、元気そのものなのを見て、島に残っていた一匹は「約束したのに何も持ってこなかった!」と非難した。
 そこで本土へ渡って冬を越したセンチコガネが言うには、
 「ぼくでは無く、土地に文句を言ってくれ!本土の土地から栄養は摂れるが、運べる食べ物は無かったんだ!」

センチコガネ:糞虫

 組織や人間関係における「期待」「約束」「成果」「責任転嫁」といったテーマを巧みに映し出している寓話だ。
 組織でも「成果を共有する」「情報を持ち帰る」といった約束が、部署間の壁や権限の違いによって成果を果たせないことがある。
 また、あるメンバーが恵まれた環境で成果を上げる一方、他者が苦境にあると、嫉妬や不信感が生まれやすい。
 結果的に約束が果たされず、信頼を損ない、追及された結果、「土地に文句を言ってくれ!」と責任逃れにも聞こえるが、構造的な制約への洞察とも取れる説明をしている。
 この説明の責任転嫁と構造的制約の境界線は、語り手の誠実さと聞き手の理解力に依存することになる。
 誠実な語り手は、自分の成果だけでなく、果たせなかった約束の理由も正直に伝えることができる。また、相手の期待や感情に対する共感も含まれるため、結果が伴わなかったときにどう説明するかが信頼の分かれ目だ。
 島に残ったセンチコガネは、本土の地形や糞の状態を知らない。だから「運べなかった」という説明を、信じるか疑うかは、相手の状況を想像する力にかかっている。誠実な説明を受けたときに、それを「裏切り」ではなく「構造的な限界」として受け止めるか、「次はどうすれば共有できるか?」と建設的に考えることが出来るかが、聞き手の理解力である。これらは、日頃からどれだけ他者の状況を知る機会があるか、どれだけ説明が許される文化かに左右されるだろう。
 あなたは本土に渡って冬を越したセンチコガネの説明を、どのように理解しただろうか?「責任逃れ」か、「構造的な限界」か。
 万一、あなた自身が約束を果たせなかったとき、どのように説明するだろうか?

コメント

コメントを残す