言葉だけの取り繕いは信用を無くす!
ストーリー
二人の少年が肉屋に入って行った。肉屋がむこうを向いている隙に、一人がもも肉をくすね、もう一人の懐に放り込んだ。
肉屋が向き直ると、もも肉がなくなっていた。肉屋は「お前らだろう」と言うと、盗んだ少年は持っていないと誓い、持っている少年は盗んでいないと誓った。
肉屋は二人の悪だくみに感づいて言うには
「嘘を言ってこの場を逃れたとしても、神々からは逃げられないぞ!」
言葉だけ取り繕っても不法行為に変わりはない。

慢心を戒める教訓
ストーリー
二人の少年が肉屋に入って行った。肉屋がむこうを向いている隙に、一人がもも肉をくすね、もう一人の懐に放り込んだ。
肉屋が向き直ると、もも肉がなくなっていた。肉屋は「お前らだろう」と言うと、盗んだ少年は持っていないと誓い、持っている少年は盗んでいないと誓った。
肉屋は二人の悪だくみに感づいて言うには
「嘘を言ってこの場を逃れたとしても、神々からは逃げられないぞ!」
言葉だけ取り繕っても不法行為に変わりはない。
ストーリー
宿り木が育ち始めるや、燕はそれが鳥たちに及ぼす危険を察知して、鳥たちを残らず集めた。
燕は「宿り木を宿す木を切り倒すか、それが出来なければ、人間の所へ助けをもとめ、宿り木の実から作った鳥もちで、自分たちを捕まえないよう頼んでおけ」と忠告した。
「つまらないことを言うやつだ!」と鳥たちが一笑に付すので、燕は一人で人間を尋ね嘆願者となった。
人間は燕が賢いことを知って向かえ入れ、一つ屋根の下で暮らすことを許した。
こうして他の鳥たちは人間に捕らえられ食べられるが、燕だけは保護されて、人間の家でも安心して巣作りすることになった。
※宿り木:北海道から九州に分布し、エノキ、ブナ、ミズナラ、ケヤキやサクラなど落葉樹に寄生する。果肉はもちのように粘りがあり、鳥黐(とりもち)として、細いサオの先に塗って、小鳥や昆虫の捕獲に使われた。
教訓
先を見通す”感”を養うことだ。先を見通す”感”を養うために経験や努力も必要になるから常に先を読むように心がけること。先を見通し正しい判断を下せる能力があれば、人の上に立てるはずだ。
この物語に出てくる燕のように皆に笑いものにされても、自分を信じて行動することで生き残ることもできる。
ストーリー
漁師が川で漁をしていた。まず、流れの両岸に差し渡して網を張っておき、紐に括りつけた石で水を打った。驚いて逃げる魚が網にかかるというものだ。
ところが、これを見ていた近所の人が「澄み切った川を濁し、水を飲めなくするものだ!」と苦情を言うので、漁師は答えて、
「しかし、こうやって川を打たないと、おれが飢え死にしてしまうよ!」
相手の立場で考える。人はそれぞれ自分が正しいと思う立場をとり、それを正当化する。ある問題で意見が対立したときは、相手を批判するときは用心して控えめにすることが賢明だ。相手の立場から問題を見れば、相手を非難することも、こちらを擁護することも難しいはずだ。
ストーリー
ある時、寓話作家のイソップは造船所へ行った。船大工たちが彼をからかって、言い返さずにはいられぬように仕向けたので、イソップはこんな話をした。
その昔、カオスと水が生じたが、ゼウスは土の要素も出現させたいと思い、三度海の水を飲みこむよう大地を促した。
大地は仕事にかかると、まず最初に山々を現し、再び飲み込んで平野を露出させた。
「もしも大地が三度目も水を飲みこむことをすれば、お前たちの仕事は無くなり何の役にも立たない者になるのだぞ!」
愚かな人に惑わされてはいけない。人をからかう言動は、自分の戒めとなることがせめてもの救いである。
ストーリー
鳥小屋で鶏が病気になっていると聞きつけた猫が、医者に化けて診察に必要な道具をそろえて出かけて行った。
鳥小屋の前に立ち「どんな具合か?」と尋ねると、鶏たちが答えて言うには
「良い具合だ!お前があっちへ行ってくれればな。」
心は態度に現れる。どんなに言葉や外見を取り繕っても、心の中で考えていることは態度や表情に現れてしまうのだ。
ストーリー
山羊飼が山羊を牧場へ追って行ったが、野生の山羊が紛れ込んだ。夕方になるとみんな自分の檻へ追いこんだ。
翌日はひどい嵐になり、いつもの牧場へ山羊を送り出すことができないので、家で世話をすることにした。
自分の山羊には飢え死にしない程度のわずかな餌しかやらず、野生の山羊は自分のものにしてやろうと、たっぷりと餌をやった。
嵐もやんで、一匹残らず牧場へ連れ出したところ、野生の山羊は山まで来ると逃げて行こうとした。
山羊飼は「たくさん餌をもらっておきながら去って行こうとするとは恩知らずな!」と非難すると、野生の山羊は振り向いて答えた、
「だから余計に警戒するのだ。あなたは昨日来たばかりの私を、昔から一緒にいるものたちよりも大事にした。それなら、あとで別のが来ると、私より、そいつを贔屓(ひいき)にするに決まっているからさ!」
過分のもてなしの裏には、別の思惑がある。
仲間の顔をしながら側にいる悪人には注意しなければならないのだ。