心は態度に現れる!
ストーリー
鳥小屋で鶏が病気になっていると聞きつけた猫が、医者に化けて診察に必要な道具をそろえて出かけて行った。
鳥小屋の前に立ち「どんな具合か?」と尋ねると、鶏たちが答えて言うには
「良い具合だ!お前があっちへ行ってくれればな。」
心は態度に現れる。どんなに言葉や外見を取り繕っても、心の中で考えていることは態度や表情に現れてしまうのだ。

ストーリー
鳥小屋で鶏が病気になっていると聞きつけた猫が、医者に化けて診察に必要な道具をそろえて出かけて行った。
鳥小屋の前に立ち「どんな具合か?」と尋ねると、鶏たちが答えて言うには
「良い具合だ!お前があっちへ行ってくれればな。」
心は態度に現れる。どんなに言葉や外見を取り繕っても、心の中で考えていることは態度や表情に現れてしまうのだ。
ストーリー
山羊飼が山羊を牧場へ追って行ったが、野生の山羊が紛れ込んだ。夕方になるとみんな自分の檻へ追いこんだ。
翌日はひどい嵐になり、いつもの牧場へ山羊を送り出すことができないので、家で世話をすることにした。
自分の山羊には飢え死にしない程度のわずかな餌しかやらず、野生の山羊は自分のものにしてやろうと、たっぷりと餌をやった。
嵐もやんで、一匹残らず牧場へ連れ出したところ、野生の山羊は山まで来ると逃げて行こうとした。
山羊飼は「たくさん餌をもらっておきながら去って行こうとするとは恩知らずな!」と非難すると、野生の山羊は振り向いて答えた、
「だから余計に警戒するのだ。あなたは昨日来たばかりの私を、昔から一緒にいるものたちよりも大事にした。それなら、あとで別のが来ると、私より、そいつを贔屓(ひいき)にするに決まっているからさ!」
過分のもてなしの裏には、別の思惑がある。
仲間の顔をしながら側にいる悪人には注意しなければならないのだ。
ストーリー
ナイチンゲールがいつものように高い木の上で歌っていると、腹が減った鷹が見つけ、飛びかかって捕まえた。
ナイチンゲールは殺される寸前に「私ではあなたの胃袋を満たすには小さすぎます。お腹がすいているなら、もっと大きな鳥に向かうべきです!」と言って、逃がしてほしいと頼んだ。
すると鷹が答えて言うには、
「手の中にあるご馳走を放り出して、まだ見ぬものを追いかけるほど、おれは間抜けではない!」
もっと、もっと、と大きなものを望んではいけない。今、手の中にあるものを大事にすることだ!
※類似教訓
イソップ寓話の教訓No.87「金の卵を生む鵞鳥(ガチョウ)」
ストーリー
鷲が兎を追っていた。兎には誰も助けてくれなかったが、センチコガネを見つけたのを幸いに、これに助けを求めた。
センチコガネは兎を励まし、鷲が近づいてくるのを見ると「兎を連れさってくれるな!」と頼んだ。
それなのに鷲はセンチコガネの小さいのを侮って、目の前で兎を平らげてしまった。
それ以来、センチコガネは恨みを忘れず、鷲の巣を見張り続けて、鷲が卵を生もうものなら、飛んで行って、卵を落として割ってやった。
どこへ行っても卵を落とされるので、とうとう鷲はゼウスの所へ逃げ込んで、安全な巣作りの場所をお願いした。鷲はゼウスの使いであったのだ。
ゼウスは自分の懐で卵を生むことを鷲に許したが、それを見ていたセンチコガネは糞団子を作るなり飛び立って、ゼウスの懐の真上に来るとポトリと落とした。
ゼウスは糞を払おうと立ち上がったとたん、うっかり卵を落としてしまった。
これ以来、センチコガネの出る季節には、鷲は巣を作らなくなった。
この物語の教訓は、
小さく力のないものでも侮ってはいけない。相手を甘く見てとった行動は、いずれ報いとして自分に帰ってくるのだ。
ストーリー
鷲が高い岩場から舞い降りて、子羊をさらっていった。
これを見ていた烏は「あの程度なら、自分も真似してやれ!」と羽音高く飛び立つと、急降下して襲い掛かったのは、大人の牡羊。
ところが牡羊は重く、逃げようにも、ふさふさした毛に爪が食い込み、引き抜くことができないまま羽をばたつかせているうちに、とうとう羊飼いが気づいて、走り寄るなり捕まえてしまった。
羊飼いは、烏の風切り羽を切っておいて、夕方になると子供への土産に持ち帰った。
そして子供に「これは何の鳥の羽根?」と聞かれ、羊飼いが答えるには、
「これは間違いなく烏の羽根だよ!だが、こいつは鷲のつもりでいるんだ。」
この物語の教訓は、
自分の能力は正確に見積もる。
だれでも時として、自分を過大評価するものです。自分の能力を過信し大きな希望を持つことは自由ですが、期待がかなわない時に、気力もなえてしまいます。自分の能力を客観的に知ることは、愚行への最大の予防です。
ストーリー
むかし神様が地上をご自分で歩いていたころ、麦の粒は茎の下の方から上の方まで、べたいちめんについていました。ですから穂も長いものであったのです。けれど人間の常として、ふんだんにあるものは、さほど有難く思わず軽はずみな気分になるものです。
ある日のこと、女と小さい子供が、麦畑の脇を通りかかりました。小さい子供が、水たまりに落ちて、着ものを汚してしまったのです。母親は見事な穂をひとつかみむしり取って、それで子供の着ものを拭いてやりました。
ちょうどそこを通りかかられた神様が、これをご覧になると、お腹立ちで「これからは麦の茎には、いっさい穂をつけてやらぬ。人間どもは天の恵みをうける値打ちがない」とおおせになりました。
まわりで、このお言葉をうかがった者たちは、驚いて膝をつき言いました。「どうぞ、ほんの少しばかりでも、穂を茎に残しておいてくださいますように。人間には値打ちが無くとも、罪もない鳥のために、なにとぞ!」
神様は、先々困るのがおわかりですから、可哀そうに思い、この願いをおききとどけなりました。こんなわけで、麦の穂は上の方だけ残っているのです。
この物語の教訓は、
身の回りに当然のようにあるものは、普段はどうでも良いというな気持ちになる。
ところが、それを失った時に、その有難さを思い知らされる。