個人攻撃の意味を見抜く!
鶏と山うずら
家で鶏を飼っている男が、よく馴れた山うずらの売り物に出会って、一緒に育ててやろうと買って持ち帰った。
ところが鶏たちが突っついたり、追いかけましたりするので、山うずらは「種類が違うから仲間外れにされる!」と悲観していた。 しかし、程なくして、鶏たちが喧嘩をし、血を流すまで離れないのを見て、独り言で言った。「鶏に突っつかれても、苦にならないぞ。あいつら同士だって容赦しないのだから!」
山うずらは最初、「自分が異質だから攻撃される」と思い込んでいました。しかし、鶏同士の激しい争いを見て、「同じ種類でも容赦しない」ことに気づきます。自分が攻撃される理由を「自分のせい」としていましたが、攻撃は自分の異質性ではなく、鶏たちの性質によるものだと理解したことで、突っつかれても“個人的な敵意”とは感じなくなり、感情的な苦しみが和らいだのです。
逆に異質性が攻撃の原因だった場合はどうでしょうか。自分の努力や工夫では攻撃が止まらない時だってあるはずです。
攻撃が構造的に許容されている、あるいは加害者が保護されている場合、個人の努力では止められません。
そんな時は「場を変える」。それは苦しい決断かもしれません。長くいた場所だからこそ、離れることに罪悪感や不安を感じるかもしれません。それでも、自分の価値を守るためには、場に見切りをつける勇気が必要です。撤退は「逃げ」ではなく、「自分の尊厳を守るための移動」なのです。
「場を変えられない」場合や「場を変えたくない」時は、記録と証拠を残し、第三者の介入を求めることも必要です。孤立は、攻撃者にとって最も都合のいい状態です。だからこそ、声を上げることが、自分を守る第一歩になるのです。
誰もが同じように苦しんでいるなら、自分だけが責められているわけではないと感じられます。だからこそ、山うずらは辛さを受け入れられたのでしょう。“平等な辛さなら、その辛さも我慢できる”——この言葉は、孤立の苦しみを和らげる小さな灯火にもなり、誰かが自分の痛みに気づいてくれる希望にもなるのです。
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