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沈んだ気持ちを和らげる教訓

  • グリム童話の教訓「天国へ行った貧しい農夫」

    人生は不公平だ!

    ストーリー

    貧乏だが信心深い農夫が亡くなり天国へ行った。天国の門の前に着くと、お金持ちの商人がいた。

    神様が出てきて、先にお金持ちの商人を中へ入れた。貧しい農夫は目に入らなかったらしく、そのまま門が閉まった。

    貧しい農夫が門の前で待っていると、中から歓迎の歌や楽器の演奏が聞こえてきた。

    そのうち静かになったかと思うと、神様が出てきて貧しい農夫を中へ入れた。

    貧しい農夫は歓迎の歌や楽器の演奏を期待していたが、ひっそりと静まり返っていた。そこで神様に尋ねた。「どういうわけで、私が中へ入った時は歌や楽器の演奏が無いのですか?これでは下界と同じように不公平です。」

    神様は答えて「そうではない。おまえは、みんなと同じように天国の楽しみを味わうことができる。だが、おまえのような貧しい者は、毎日毎日、天国へ来るが、あのようなお金持ちが天国に来るのは、百年に一人の割合だからだ。」

    この物語の教訓は、
    人生は不公平だ、ということは確かなことです。人との比較で無く自分の目的を達成すことに意識を向けませんか。

    天国へ行った貧しい農夫の画像
    天国へ行った貧しい農夫
  • グリム童話の教訓「狐と馬」

    戦える人はずるい人の搾取の対象にはならない!

    ストーリー

    ある農夫が馬を一頭飼っていましたが、馬が年取って仕事ができなくなったので、馬に言いました。「お前はもう使えない。もしライオンを連れてこられるだけの力があれば飼っておくのだがな。今のところ、ひとまず、ここから出て行っておくれ。」馬は広い野原へ追い出されました。

    馬が今夜の寝床を探そうと森の中を歩いていると、狐に会いました。狐は「なぜ、そんなにしょんぼり歩いているの?」と声をかけました。馬は答えて「畑仕事ができなくなったので追い出されたんだ。ライオンを連れてくる力があれば飼ってやると言っているが、そんなことの出来ないのを知っていて、言っているのさ。」

    狐は「それなら、何とかしてあげられそうだ!ここに転がって死んでるように動くんじゃないよ!」と言って、歩き出しました。

    狐はそこから遠くない洞穴に住んでいるライオンの所へ行って「死んだ馬が一頭もろがっています。ご案内しますよ!」と言いました。

    二匹が馬の所へ着いたとき、狐は「ここでは、落ち着いて召し上げれそうにありません。馬のしっぽをあなたに縛り付けるので、こいつを洞穴に連れ込んで、召し上がりませんか。」と言いました。

    ライオンはうまい考えだ、と思いじっとしていました。

    ところが狐は、馬のしっぽでライオンの脚を縛りつけると、馬の肩をポンと叩いて「それ行け!、それ行け!」と言ったのです。

    馬はいきなり跳ね起きて、吠えるライオンを引きずりながら、野原をこえて主人の家の戸口まで走って行きました。

    主人は、これを見てすっかり考え直し、「お前を私のうちにおいて、一生楽をさせてあげよう!」と馬に言い、お腹いっぱい食べさせてあげました。

    この物語の教訓は・・・
    戦える人はずるい人の搾取の対象にはなりません。
    弱音を言っていた馬も、狐の力を借りて戦える馬に変わり、待遇が良くなりました。

    グリム童話の教訓「狐と馬」
  • グリム童話の教訓「マリアの子供」

    大きな森の入り口に木こり夫婦と女の子が住んでおりました。大変に貧しく子供に食べさせることも困るありさまでした。

    ある朝、木こりが森へ入ると、いつの間にか木こりの前に美しい女が立っていて、木こりに言いました。「私はマリアと言います。あなたはその日の暮らしにも困っている様子。子供を連れてくれば、私がめんどうを見ましょう。」

    木こりは、言われた通り女の子をマリアに預けると、マリアは天に向かって帰って行きました。

    その女の子が十四歳になった時、マリアが呼び寄せて言いました。「私は、しばらく旅に出ます。留守の間、この十三の扉の鍵を預かってください。このうち十二までの扉は開けて構わないけれど、十三の扉は、絶対に開けてはいけませんよ。」

    そして毎日、扉を一つ開けているうちに、十二の扉まで済んでしまいました。ある時、女の子の周りに誰もいなくなったので、こっそり十三の扉を開けてみると、ご本尊が火と光彩に包まれて鎮座する姿が見えました。その光彩にさわってみると、指の先が金色になりました。女の子は怖くなって逃げ出しました。

    それから間もなくマリアがお帰りになり、女の子に鍵を返すように仰せられました。女の子が鍵の束を渡すと、十三の扉は開けなかったかい?」と尋ねます。

    「開けていません」と女の子が答えると、マリは続けて同じことを尋ねます。女の子は、二度目の返事も、三度目の返事も、同じ「開けていません」と言うものです。

    マリアは「あなたは、私の言いつけを守らないばかりか、嘘までつきました。もうここにいる資格はありません。」と言うと、いつの間にか女の子は下界へ下りていて、口がきけなくなり、独りぼっちになっていました。

    しばらくすると、狩りに来ていたその国の王様が、その女の子を見つけ、城へ連れて帰りました。女の子は口がきけなかったものの、美しかったので、王様と結婚式をあげることになったのです。

    一年たち、男の子が生まれた夜、マリアが現れ「本当の事を言うのなら言葉を戻してあげましょう。嘘を押し通すなら子供を連れてゆきます。」と言います。それに答えて「扉は開けておりません」と答えると、マリアは生まれたばかりの子供を取り上げ消えました。

    その次の年も、次の次の年も、子供が生まれるとマリアが現れて、同じように問いただしても、「扉は開けていません」と同じ答えで、子供が取り上げられて行きました。

    とうとう子供がいなくなったことが世間に知れ渡り、火あぶりの刑にされることになりました。柱に縛り付けられ、火が体のまわりで燃え出した時「せめて死ぬ前に、あの扉を開けたと白状出来たら、どんなにうれしいでしょう」としんみりと思いました。

    すると、そのとたんに声が出て、「マリア様、私は扉を開けました。お許しください」と声を張り上げました。

    その声をきっかけに、急に雨が降り出し炎を消しました。そして天からマリアが現れ「罪を悔いて懺悔をする者には、罪は許されるのです」と優しく仰せられ、三人の子供をお渡しになり、声を出せるようにして、一生涯の幸せをおさずけになりました。

    教訓
    正直になるにはエネルギーがいる。だから正直になるのはキツイと感じる時がある。しかし正直でいなければ、いつか大きなツケとなって自分に返ってくる。その場をごまかしてやり過ごせば、いずれ自分への報いとなる。だから心穏やかでいたいなら、自分に正直になるべきだ。

    グリム童話の教訓「マリアの子供」
    グリム童話の教訓「マリアの子供」
  • 日本の昔話の教訓「山姥の隠れ蓑」

    道が開けるまで辛抱する!

    ストーリー

     むかし、ある山国の田舎に、美しい一人の娘がありました。

     春の日に村人たちと山へ遊びに行って、自分だけ道を間違えたようで、村へ帰ることが出来なくなりました。

     だんだん日が暮れて、山道は真っ暗です。不気味な動物の鳴き声が聞こえだし、心細くなりながら歩いていると、向こうにたった一つ、明かりが見えたので、ほっとして訪ねていきました。

     「こんばんは、どなたかおりますか?」と、外から声をかけると、出てきたのは山姥で「ここは人食いの家だ!泊めるわけにはゆかぬ。普通の人の家を探しなされ」と言うのです。

     娘はぞっとしたものの「今夜のような暗い晩に、山の中を歩いていれば、熊か狼に食べられるに決まっております。それでしたら、こちらで食べられたほうがまだ良いのです。」と答えました。

     娘を哀れに思った山姥は、家の奥から蓑を持って来ると娘に渡し「大事な宝だが、これをお前にあげる。これを被ってもっと先へ行くが良い。この蓑を着て叶え事を三回となえると、自分の思った通りの姿になれる。また、欲しいと思うものは、この蓑を振ると何でも出てくる」と言います。

     娘は、さっそくよぼよぼのお婆さんになって、山姥の家を出発しました。

     途中、鬼が通行人を待ち伏せするところがあったのですが、よぼよぼのお婆さんを見て、「盗るものは無いだろう」と、無事に通ることが出来ました。

     夜明けごろ、知らぬ里に出ることが出来て、ある長者の家の前に着きました。どこでも良いので置いてほしい、とお願いすると、「お婆さまもお困りだろうから、長屋の空いているところに居るが良い」、と言って住まわせてもらえることになりました。

     その長屋では、昼は糸つむぎをして暮らしをたてながら、夜はもとの娘になって、手習いをしていました。

     ある時、その家の下男が手習いをしている娘を見つけたので、化け物かと思い長者どのに話しました。

     次の日、長者どのは、お婆さんを呼んで問いただしてみますと、山姥にもらった隠れ蓑の話を始めました。長者殿は娘の家をさがし、今までの話をしたそうです。

     娘の家では大喜びでした。その後、娘は長者の家へ嫁ぐことになり、一家仲良く栄えたそうであります。

    どんな時でも腐らず諦めなければ、いずれ道は開けます。道が開けるまで辛抱できるかどうかで、その後の展開が変わります。

    日本の昔話の教訓「山姥の隠れ蓑」
  • イソップ寓話の教訓No.16「猫と鶏」

    ストーリー

    猫がもっともらしい理由を言って、鶏をたべようと考えた。

    そこでまず猫は「おい、早朝から時を告げ、安眠妨害をするから迷惑だ!」と言いがかりをつけた。
    鶏は「朝に時を告げ、人を起こしてあげるのは役に立っているのですよ」と答える。

    すると猫は「野菜を食べるから畑を荒らす不届きものだ!」と言うと、鶏は「飼い主のくれた餌を食べているし、卵がたくさん産まれるためです」と答える。

    しまいに猫が言うには・・・、

    「いつまでも言い訳が続くからと言って、俺がお前に襲いかからないと思うな!」

    相手に悪意があると正当な答えも通用しない。

    猫と鶏の画像
    イソップ寓話の教訓No.16「猫と鶏」
  • イソップ寓話の教訓No.12「狐と豹」

    ストーリー

    狐と豹がどちらが美しいか競い合った。

    豹は体の模様の多彩さを言うので、狐は答えて・・・、

    「心が多彩な私のほうが、なんと美しいことでしょう!」

    体の美しさより、知恵のほうがより重要である。

    狐と豹の画像
    イソップ寓話の教訓No.12「狐と豹」
  • 日本の昔話の教訓「藁しべ長者」

    自分の元手を人のために使うと何倍にもなって帰ってくる!

    ストーリー

    貧乏でどうにもならない男が、大和の長谷の観音様に参り、「どうか助けてください」と拝んでいました。

    そうしたところ、ある晩、夢に観音様が出てきて、言いました。

    「その方、前生の行いが悪かったので、この世で報いを受けているのだ。授ける福は無いのだが、あまりに不便なので、少しだけものを遣わすぞ!これからの帰り道、最初に手の中へ入ったものを賜りものと思って持ち帰れ。」

    男はその夢を観音様のお告げと思い、今日のお参りを最後にすることにしました。

    長谷の観音様の大門を出ようとするとき、どうしたことか、つまづいて転びました。起き上がりますと、手に一本の藁しべをつかんでおりました。「これが、あの夢の賜りものであるか、心細いことだ」と思いながら、門を出てきました。

    途中、一匹のアブが顔をのまわりをうるさく飛び回るので、藁しべで縛ると、アブは縛られたまま、ぶんぶん飛びました。

    そこへ参詣にきた牛車に乗っている子供が「あれが欲しい」と言い出したので、男はアブをあげたところ、お礼にミカンを三つ頂きました。

    また途中、今度は道の脇に休んでいる若い女がありました。若い女は「喉が渇いたので水を飲みたいが、このあたりに水はなかろうか?」と男に尋ねてきました。近くには井戸も見当たらないので、ミカンをあげたところ、三反の布を頂きました。

    また途中、今度は道に馬が横たわり、困っている武士がありました。武士は「馬が死んで、始末に困っている」と言うので、男は「私が引き受けて片付けましょう」と言い、一反の布と死んだ馬を交換しました。

    男はしばらく馬の側にいたところ、馬が目をあけ息を吹き返しました。男は、手元にある二反の布で馬具や餌などを農家から譲ってもらいました。

    翌日、馬に乗って京へ帰ってくると、一件の大きな家の主人が、「旅に出るのに馬がいるのだが、お金に不自由している。少しばかり田があるが、馬の代わりに取って作ってくれぬか?それから、この家も預けておくので、私が帰るまで自由に住んでよろしい」と言います。

    男は承知をし、譲られた田を耕し、一年ごとに暮らしが楽になりました。

    元の家主は、何年たっても帰ってこないので、この大きな家も自分のものとなり、長谷の観音様に感謝した、という話でございます。

    自分の元手を人のために使うと何倍にもなって帰ってくる。だが見返りを期待した行為は元本の損失を招くので注意が必要だ。また、強欲は身を亡ぼすことになるので厳しく慎みたい。

    わらしべ長者の画像
    日本の昔話の教訓「わらしべ長者」
  • イソップ寓話の教訓No.429 「波を数える男」

    制度疲労を超えて再起動する組織

    波を数える男

     ある男が、波打ち寄せる浜辺に座って、波を数えようとした。数え損なって落胆し悲しんでいると、狐がやって来て言った。
     「どうして過ぎたことを悲しむのですか?そんなことは忘れて、今ここから数え始めるべきです!」

     男は「波を数える」という行為に集中していたが、うまくいかず落胆してしまう。これは、過去にこだわることで現在の可能性を見失ってしまう危険性を象徴しています。そこへ現れた狐は、「過ぎたことを悲しむより、今から数え始めればいい」と静かに諭しています。
     この言葉は、過去への執着を手放し、今この瞬間に目を向けることの重要性を示していると言えるでしょう。
     組織においても、外部環境(市場、技術、規制など)は波のように常に変化しており、過去の構造や制度に固執することは、柔軟な対応力を失うことにつながります。
     また、男が波を数えることに意味を見出していたように、組織もまた、特定の構造や役割に固有の意味や価値を見出しがちです。
     しかし、その意味が時代遅れになっている可能性もあります。だからこそ、狐の言葉「今ここから数え始めるべき」は、組織が現状を受け入れ、ゼロベースで構造を見直す勇気を持つべきだという示唆にほかなりません。
     まさにその姿は、声なき知恵を持つ人材が、組織の混乱や停滞の中で、過去に囚われた思考をそっとほぐし、未来への再起動を促す存在として、静かに、しかし確かに浮かび上がってくるのです。
     あなたの組織にも、静かに問いを差し出す“声なき知恵者”のような存在がいるかもしれません。

  • イソップ寓話の教訓No.414 「牡牛と母ライオンと猪」

    犠牲の上に成り立つ関係

    牡牛と母ライオンと猪

     牡牛が眠っている仔ライオンを見つけ、角で突き殺した。母ライオンがやって来て、死んだ子供をみて激しく泣いていた。
     泣く母ライオンを遠くのほうで見ていた猪が言うには、「どれほど多くの動物が、お前たちに子供を殺されて、泣いていることか!」

     この寓話から導ける教訓は、「自分が他者に与えてきた苦しみは、いつか自分にも返ってくる」ということです。つまり「因果応報」や「共感の欠如が悲劇を生む」という普遍的な真理を示しています。
     以下は、ある企業の実例です。
     その企業は、サービス価格を据え置くことで顧客との関係を維持していました。価格が変わらなければ顧客は不満を持たず、たとえサービスの質が下がっても「説明しやすい」という理由から、据え置きが続けられていたのです。しかし、この構造は下請け企業の犠牲の上に成り立っていました。
     やがて、公正取引委員会から独占禁止法違反の疑いを指摘され、下請け企業の取引価格を見直さざるを得なくなりました。利益を守ろうとした経営陣は、やむなくサービス価格に転嫁して値上げしましたが、顧客からは「NO」が突き付けられ、多くの取引先が解約に至りました。
     この事例は、組織が弱者を犠牲にする仕組みを持てば、その仕組みがやがて組織自身を締め付けることを示しています。だからこそ、短期的な「楽な交渉」ではなく、長期的に持続可能な関係を優先することが重要です。信頼を基盤にしていれば、値上げの場面でも受け入れられやすくなります。
     つまり「価格の据え置き」ではなく、「価値」で関係を維持することが大切なのです。

  • イソップ寓話の教訓No.405 「一眼の巨人(キュクロプス)」

    短期利益か、長期信頼か

    一眼の巨人(キュクロプス)

     誠実で、仕事熱心な男がいた。長い間、家族ともども安定した生活を送っていたが、あるとき極度の貧困に陥ってしまった。男は将来に絶望し、みじめに生きるよりは死んでしまうことを選んだ。自ら剣を手にして、人気の無い場所へ出て行った。
     しばらく行くと、とても深い穴を見つけた。中をのぞくと、そこには一眼の巨人が隠しておいた沢山の金塊があった。
     この男は、たちまち恐れと喜びで胸がいっぱいになった。しばらく茫然と立ち尽くしていたが、手にしていた剣を捨て、金塊をすべて取り上げると、家族の待つ家へ帰って行った。
     やがて一眼の巨人が穴に帰って来ると、金塊は見当たらず、剣がそこに落ちているのを見た。しばらく立ち尽くし、その剣を使って、自ら命を絶った。

    ※キュクロプス:ギリシア神話に登場する卓越した鍛冶技術を持ち、額に一眼を有する巨人

     男は絶望の中で「生きる理由」を失いましたが、金塊を見つけた瞬間、「生活を立て直せる」という具体的な希望に変わりました。一眼の巨人は、金塊を失った瞬間、自分の役割や生きる理由を失い、剣を取って命を絶ちました。一眼は「欠けた認識」「不完全な知恵」を示します。巨人は富も力も持っていましたが、視野が狭いために生きる意味を金塊にしか結びつけられなかったのです。

     この寓話は、資源や富そのものではなく、それをどう「生きる理由」に転換するかを問うています。組織も同じです。私が所属していた会社では、親会社から天下った社長が2年ごとに交代し、株主からは短期的な成果を求められました。その結果、利益至上主義に陥り「今期の数字」ばかりを追い求め、社員も取引先も消耗していったのです。これはまさに「一眼の巨人」の姿でした。

     最低限の売上や利益はもちろん必要です。しかし、それを取引先や未来との関係に結びつける柔軟さこそが、持続可能性を生み出します。数字は目的ではなく結果。関係性こそが企業の命を支えるのです。

     経営の神様・松下幸之助はこう語っています。
    「万策尽きたと思うな。自ら断崖絶壁の淵にたて。その時はじめて新たなる風は必ず吹く。」
     人生も組織も、一寸先は闇です。幸運の波に乗っていたかと思えば、突然不運に見舞われることもある。不運続きで捨て鉢になっていたところに、思いがけない幸運が訪れることもある。だからこそ、最後の最後まで諦めないことが大切なのです。

  • イソップ寓話の教訓No.250「榛(ハシバミ)の木」

    ストーリー

    道端に生えた榛の木は、通りがかりの人たちに石を投げつけられるので、ため息をついて呟いた。

    「あー、毎年、実が生るから痛い思いをするのだ!」

    ※榛の木(はしばみの木):ヘーゼルナッツの木として有名

    良い素質を生まれ持つと妬まれる。だから時に無能を演じることも知恵である。
    周りが無能な者ばかりであると、こちらの能力も役に立たたなくなる。気持ちがさがるデメリットはあるが、上手くとけこむために周りに合わせたほうが得策なときもある。そしてそのような所から、さっさと立ち去れるよう、準備を始めるべきだ。

    榛の木の画像
    イソップ寓話の教訓No.250「榛の木」
  • イソップ寓話の教訓No.23  「鶏と山うずら」

    個人攻撃の意味を見抜く!

    鶏と山うずら

     家で鶏を飼っている男が、よく馴れた山うずらの売り物に出会って、一緒に育ててやろうと買って持ち帰った。
     ところが鶏たちが突っついたり、追いかけましたりするので、山うずらは「種類が違うから仲間外れにされる!」と悲観していた。 しかし、程なくして、鶏たちが喧嘩をし、血を流すまで離れないのを見て、独り言で言った。「鶏に突っつかれても、苦にならないぞ。あいつら同士だって容赦しないのだから!」

     山うずらは最初、「自分が異質だから攻撃される」と思い込んでいました。しかし、鶏同士の激しい争いを見て、「同じ種類でも容赦しない」ことに気づきます。自分が攻撃される理由を「自分のせい」としていましたが、攻撃は自分の異質性ではなく、鶏たちの性質によるものだと理解したことで、突っつかれても“個人的な敵意”とは感じなくなり、感情的な苦しみが和らいだのです。
     逆に異質性が攻撃の原因だった場合はどうでしょうか。自分の努力や工夫では攻撃が止まらない時だってあるはずです。
     攻撃が構造的に許容されている、あるいは加害者が保護されている場合、個人の努力では止められません。
     そんな時は「場を変える」。それは苦しい決断かもしれません。長くいた場所だからこそ、離れることに罪悪感や不安を感じるかもしれません。それでも、自分の価値を守るためには、場に見切りをつける勇気が必要です。撤退は「逃げ」ではなく、「自分の尊厳を守るための移動」なのです。
     「場を変えられない」場合や「場を変えたくない」時は、記録と証拠を残し、第三者の介入を求めることも必要です。孤立は、攻撃者にとって最も都合のいい状態です。だからこそ、声を上げることが、自分を守る第一歩になるのです。
     誰もが同じように苦しんでいるなら、自分だけが責められているわけではないと感じられます。だからこそ、山うずらは辛さを受け入れられたのでしょう。“平等な辛さなら、その辛さも我慢できる”——この言葉は、孤立の苦しみを和らげる小さな灯火にもなり、誰かが自分の痛みに気づいてくれる希望にもなるのです。