投稿者: gray wolf

  • イソップ寓話の教訓No.16「猫と鶏」

    ストーリー

    猫がもっともらしい理由を言って、鶏をたべようと考えた。

    そこでまず猫は「おい、早朝から時を告げ、安眠妨害をするから迷惑だ!」と言いがかりをつけた。
    鶏は「朝に時を告げ、人を起こしてあげるのは役に立っているのですよ」と答える。

    すると猫は「野菜を食べるから畑を荒らす不届きものだ!」と言うと、鶏は「飼い主のくれた餌を食べているし、卵がたくさん産まれるためです」と答える。

    しまいに猫が言うには・・・、

    「いつまでも言い訳が続くからと言って、俺がお前に襲いかからないと思うな!」

    相手に悪意があると正当な答えも通用しない。

    猫と鶏の画像
    イソップ寓話の教訓No.16「猫と鶏」
  • イソップ寓話の教訓No.15「狐と葡萄」

    都合の良い口実で正当化してはいけない!

    ストーリー

    喉が渇いた狐が、木に実っている葡萄を見つけて、取りたいと思った。

    しかし、木の高いところに房をつけているので、どうしても届かなかった。

    取るのをあきらめた狐が独り言で言うには・・・

    「ここの葡萄は、きっと酸っぱい。だれが食べてやるものか!」

    都合の良い口実で能力不足を正当化してはいけない。できない言い訳、出来た者に対しての嫌味や妬みは向上心がないことをさらけ出している。
    気によじ登ってでも葡萄を取ってやろう!という意欲を持ちたい。その必死さは嫌味や妬みを賞賛や応援に変えるだろう。

    狐と葡萄の画像(イソップ寓話)
    イソップ寓話の教訓No.15「狐と葡萄」
  • イソップ寓話の教訓No.12「狐と豹」

    ストーリー

    狐と豹がどちらが美しいか競い合った。

    豹は体の模様の多彩さを言うので、狐は答えて・・・、

    「心が多彩な私のほうが、なんと美しいことでしょう!」

    体の美しさより、知恵のほうがより重要である。

    狐と豹の画像
    イソップ寓話の教訓No.12「狐と豹」
  • 日本の昔話の教訓「藁しべ長者」

    自分の元手を人のために使うと何倍にもなって帰ってくる!

    ストーリー

    貧乏でどうにもならない男が、大和の長谷の観音様に参り、「どうか助けてください」と拝んでいました。

    そうしたところ、ある晩、夢に観音様が出てきて、言いました。

    「その方、前生の行いが悪かったので、この世で報いを受けているのだ。授ける福は無いのだが、あまりに不便なので、少しだけものを遣わすぞ!これからの帰り道、最初に手の中へ入ったものを賜りものと思って持ち帰れ。」

    男はその夢を観音様のお告げと思い、今日のお参りを最後にすることにしました。

    長谷の観音様の大門を出ようとするとき、どうしたことか、つまづいて転びました。起き上がりますと、手に一本の藁しべをつかんでおりました。「これが、あの夢の賜りものであるか、心細いことだ」と思いながら、門を出てきました。

    途中、一匹のアブが顔をのまわりをうるさく飛び回るので、藁しべで縛ると、アブは縛られたまま、ぶんぶん飛びました。

    そこへ参詣にきた牛車に乗っている子供が「あれが欲しい」と言い出したので、男はアブをあげたところ、お礼にミカンを三つ頂きました。

    また途中、今度は道の脇に休んでいる若い女がありました。若い女は「喉が渇いたので水を飲みたいが、このあたりに水はなかろうか?」と男に尋ねてきました。近くには井戸も見当たらないので、ミカンをあげたところ、三反の布を頂きました。

    また途中、今度は道に馬が横たわり、困っている武士がありました。武士は「馬が死んで、始末に困っている」と言うので、男は「私が引き受けて片付けましょう」と言い、一反の布と死んだ馬を交換しました。

    男はしばらく馬の側にいたところ、馬が目をあけ息を吹き返しました。男は、手元にある二反の布で馬具や餌などを農家から譲ってもらいました。

    翌日、馬に乗って京へ帰ってくると、一件の大きな家の主人が、「旅に出るのに馬がいるのだが、お金に不自由している。少しばかり田があるが、馬の代わりに取って作ってくれぬか?それから、この家も預けておくので、私が帰るまで自由に住んでよろしい」と言います。

    男は承知をし、譲られた田を耕し、一年ごとに暮らしが楽になりました。

    元の家主は、何年たっても帰ってこないので、この大きな家も自分のものとなり、長谷の観音様に感謝した、という話でございます。

    自分の元手を人のために使うと何倍にもなって帰ってくる。だが見返りを期待した行為は元本の損失を招くので注意が必要だ。また、強欲は身を亡ぼすことになるので厳しく慎みたい。

    わらしべ長者の画像
    日本の昔話の教訓「わらしべ長者」
  • 日本の昔話の教訓「春の野道から」

    日本の昔話の教訓「春の野道から」のストーリー

    昔あるところに、貧乏なお爺さんが住んでいました。

    用事があって外へ出かけなければならなくなり、買っておいた一升の酒を徳利のままぶら下げて、出かけました。

    広い野原にさしかかると天気も良く、少し疲れたので、この辺で一杯やろうと思い腰かけました。

    すると、足元に骸骨が一つ転がっているのです。

    「これはこれは、どちらの方の骨だか知りませんが、ちょうど良いところだ。おれは一人で飲むのが嫌いだから、お前さんも一つ飲んで景色を見ながら楽しみましょう」と言って、その骸骨に酒をそそぎかけました。歌など歌ってしばらくしてから、そこを立って出かけました。

    ところが、用を済ませたその帰り道、黄昏時に同じ野を通って帰ってくると、後から「爺様、ちょっと待って」と呼ぶ声が聞こえます。振り返ると、十七八の美しい姉様でした。

    姉様は「今日はお前さまのお蔭で、嬉しい思いをいたしました。私は三年前に、この野原を通っていて急病で死んだ娘であります。親たちは、方々探していますが、まだ見つけていただけず、寂しく暮らしていました。この月の二十八日に法事がございますので、私と一緒に親の家へ行ってください」と言ったそうです。

    さて、その二十八日になりますと、美しい娘が野原で待っておりました。娘の家は大きな屋敷で「俺には、とてもこの中には入れない」とお爺さんが言うと、姉様は「私の着物に捕まってください」といい、誰にも見られずに仏間へ入ることが出来ました。

    法事も終わるころになって、膳を下げる時に女中が皿を落として割ってしまったのです。家の主人はひどく小言をいいましたところ、幽霊の娘は「あのようなところを見るのが嫌なので、帰ります」と言い、消えてしまったのでです。

    娘が消えてしまうと爺様の姿が見えてしまい、今までのことを話して聞かせますと主人夫婦は泣きました。

    早速、娘のいる野原へ骨を迎えに行って、葬式を営んだそうです。

    爺様は、この家の人に情けをかけられ、暮らしが楽になったそうです。

    教訓
    出会うことから全てが始まります。いざと言うとき助けてくれるのはリアルな関係の人です。素敵な出会いを!

    出会いの多さではありませんから、ご注意を!

    春の野道からの画像
    日本の昔話の教訓「春の野道から」
  • 日本の昔話の教訓「猿正宗」

    日本の昔話の教訓「猿正宗」のストーリー

    むかし九州のある大名家の飛脚が、大切な手紙をもって東海道を旅していました。

    途中、浜の方を見ると大きなタコが一匹、何かを海の中へ引き込もうとしていました。

    良く見ると、猿が引き入れられないように、岩の角にしっかりとしがみついています。

    飛脚は助けてやろうと思い、荷物を道端に置いて、磯の方へ向かい、脇差でタコを切りつけますと、猿を放して海の中へ入って行きました。

    その猿は、こちらへ近寄ってくる様子でしたが、道端に置いてあった手紙を入れてある書状箱を担いで、山へ逃げてしまいました。

    しばらく猿の後を追いかけましたが、姿が見えなくなりました。

    途方にくれて峠の中ほどで休んでいると、遥か向こうの山に同じ猿の姿が現れたのです。

    片手には書状箱、片手には長い包みのようなものを持っています。そして、だんだん近づいて来て、二品を前に置くと帰って行きました。

    猿はお礼を持って来る間、待っていてもらうために、書状箱を一時持ち去ったのでした。

    飛脚は書状箱が帰ってきたので安心し、今一つの方を開けてみると、一振りの刀でした。

    江戸についてから、これを目利きに鑑定してもらうと、紛れもない五郎正宗の名作だったそうです。

    これを殿様に献上すると、手厚いご褒美を賜り、その名刀は猿正宗と名付けられ、長くお家の宝になったそうです。

    教訓
    良い行いは人生の流れを良くします。

    猿正宗の画像
    日本の昔話の教訓「猿正宗」
  • 日本の昔話の教訓     「古屋の漏り」

    見えない力の影響

     むかし雨の降る晩に、お爺さんとお婆さんが、話をしていた。お爺さんは「狼より怖いのは、古屋の漏りだ」と言った。 
     それを立ち聞きした狼は「この世には、俺より恐ろしい”もり”というものがあるらしい。油断がならぬ」と思った。
     そのころ、ちょうどこの家に入ろうとした馬盗人が、馬と間違えて狼の背中に乗った。狼は”もり”に捕まったと勘違いして、一目散に走って逃げた。
     馬盗人は振り落とされ、道端の井戸に落ちてしまった。

  • イソップ寓話の教訓No.459 「驢馬の覗き」

    責任転嫁を許す組織の構造

    驢馬の覗き

     焼き物師が仕事場にたくさんの鳥を飼っていた。
     驢馬が通りかかったが、驢馬追いがしっかりと追わないので窓から覗き込んだ。鳥はビックリして、室内を飛び回り、焼き物を割ってしまった。
     仕事場の主は驢馬追いを訴えた。
     驢馬追いが、向こうから来る人に罪状はなんだ?と聞かれ、それに答えた。「驢馬の覗きだ!」

     驢馬追いの「罪状は驢馬の覗きだ!」という答えは、責任を自分ではなく動物に押し付ける滑稽な言い訳です。これは、組織や社会でよく見られる「責任の所在を曖昧にする」態度への風刺でしょう。
     また、驢馬追いがしっかり追っていれば、覗きも起きず、鳥も驚かず、焼き物も割れなかった。つまり、予防的な注意を怠ることで、連鎖的に被害が広がる構造が描かれています。
     驢馬追いは管理責任を果たさず、責任を動物に転嫁した。この構造は、組織における役割と責任の不明確さを象徴しています。組織では、役割と責任が明確でないと、問題発生時に「誰のせいか?」という不毛な議論が起こり、根本的な改善がなされません。
     私が所属していた組織では、失敗事例を「発生原因の分析、再発防止策」の報告書として共有する文化がありました。しかし、残念ながら私には得心するところはありませんでした。責任の所在が曖昧で、原因分析も表面的なものが多く、再発防止策に至っては、根本原因を解決せず、構造的な対策を構築するものでもなく、マンパワーに頼るものが多く、持続性や再現性に乏しい印象を受けました。組織では問題の定義や報告の言葉遣いが、文化の成熟度や倫理観を反映しますし、責任を取るべき人が、言葉の定義を操作して責任を回避することは、組織文化の歪みの象徴でしょう。
     責任転嫁と責任者の責任回避をさせないために、どのような構造的アプローチが取れるでしょうか?
     まず、責任転嫁させない構造として、責任範囲を明文化し、誰が何を守るべきかを明確にするべきでしょう。こうすれば曖昧な責任領域を排除しやすくなります。
     次に責任者の責任回避をさせない構造として、事故分析において、言語の定義やフレーミングをチェックする仕組みを導入したり、透明性と誠実さを評価する文化を育てることが大事でしょう。
     あなたの組織では、責任の境界はどこまで明確ですか?

  • イソップ寓話の教訓No.453 「狼と羊飼」

    権限を持つ者のダブルスタンダード

    狼と羊飼い

     羊飼いがテントで羊の肉を食べている。それを狼が見つけ、近寄って言った。
     「俺が羊の肉を食べたら、お前たちは大騒ぎするくせに!」

     普段は「羊を襲う悪者」とされる狼が、今回はこう言います──「羊飼いこそが羊を食べているじゃないか」。
    そこには、ダブルスタンダードへの鋭い皮肉が込められています。 
     羊飼いは「羊を食べる」行為を正当な権利として行っていますが、狼が羊を食べれば違法・脅威とされる。これは、組織における「誰がやるかによって評価が変わる」構造を象徴しています。
     今でこそ、男性社員でも育児休暇を取ることは、一般的になってきました。しかし数年前までは、女性社員でも育児休暇を取ると「同僚に迷惑がかかる」と休みにくい雰囲気があり、結婚や出産を機に退職することが多かったことを記憶しています。まさしく、育児休暇制度も「会社が推進すれば正当な制度」とされます。
    しかし、個人が自ら取得を申し出ると『協調性がない』と見なされる空気が、確かに存在していました。
     この評価の非対称性は、権限を持つ者には甘く、権限を持たざる者に厳しい構造を助長することになります。
     組織内でのダブルスタンダードを防ぐには、「透明性」と「一貫性」を制度として組み込むことが不可欠でしょう。
     あなたの組織では「誰が言ったか」によって評価が変わっていませんか?その問いから、制度の見直しが始まるのかもしれません。

  • 日本の昔話の教訓「百足(ムカデ)の使い」

    誠実な人が折れないために

    百足の使い

     ある時、百足とバッタとカタツムリが寄り合いをしました。
     とても寒い日だったので皆で「酒でも飲もうじゃないか!」となりました。さて、誰が買いに行くか、ということになると、
     バッタは「跳ねたときに瓶を割りそうだ。」
     カタツムリは「歩みが遅いので、帰りが間に合わないだろう。」
     百足は、しかたなく「それでは私が買いに行こう」と行くことになりました。
     ところが、しばらくたっても百足は戻ってきません。バッタとカタツムリが心配になり見に出かけようとしました。すると土間の脇で百足が何かしているようです。
     「百足さん、なにをしてるのだい?」と尋ねると、百足は答えて、「私は足がだくさんあるから、まだ草履を履いているところだよ!」

     バッタもカタツムリも、自らの特性を理由に買い出しを辞退しますが、それは単なる怠慢ではなく、自分の限界を見極めたうえでの誠実な判断でしょう。百足は断らずに引き受けましたが、結果的に遅れてしまう——その滑稽さの裏に、見えない苦労が潜んでいる寓話です。
     この物語は、「誰がやるか」ではなく、「どうやって支え合うか」という問いを、私たちに静かに投げかけているのです。
     一方で、「バッタも瓶を割らないように飛べばいい」「カタツムリも頑張って早く歩けばいい」といった考え方も、つい思い浮かぶかもしれません。
     これは一見もっともに聞こえますが、そこにこそ現代の組織や社会でよく見られる“無意識の圧力”が潜んでいます。つまり、「工夫すればできるでしょ?」という言葉や期待は、相手の本質的な特性を否定し、無理な適応を強いる圧力になり得ます。
     このような圧力が常態化すると、新しい取り組みが進まず変化への対応力が低下し、結果として市場競争力を失い、優秀な人材が離職する傾向が強くなります。また、自分の特性や限界を無視し、無理な適応を強いられた結果として、心身が限界を迎え、長期離脱に至ることが多くなります。
     誰かがやらなければならないことを、黙って引き受けてきた。時間がかかっても、文句を言わずに準備してきた。
    それでも「遅い」「雑だ」と言われるとき、それはあなたの価値が低いのではなく、あなたの努力が見えていないだけです。このような気持ちは、誠実に生きようとする人が組織や社会の中で背負わされがちな「見えない重荷」の証でもあります。
     否定的な言葉をかける人の多くは、未熟さや不安を抱えているだけであり、あなたの価値を否定しているわけではありません。
     評価と存在価値を混同しないこと——それが、誠実なあなたの心を守る静かな知恵です。

  • 日本の昔話の教訓     「黒鯛大明神」

    誤解から始まる革新

    黒鯛大明神

     むかし一人の魚商人が、魚を売りに山奥へ入って行きました。
     寂しい山道を歩いていると、脇の林の中で山鳥が一羽、罠にかかっていました。
     魚売りは、これを見て、欲しいと思い、山鳥の代わりに自分の籠から黒鯛を三尾取り出して、罠に挟んでおきました。
     その後、村の人が罠にかかった黒鯛を見て大変驚き、天の神の御示しであろうと、小さな社を建てて黒鯛を祀りました。
     その評判が伝わりますと、あちらこちらから、お参りに来るものがあって、村は栄えたということです。

     魚商人のささやかな交換行為が、村の信仰と経済に影響を与えました。これは、日常の些細な選択が、予期せぬ波及効果を持つ可能性を示唆しています。
     魚商人の行動は、制度の想定外にある逸脱でした。しかしその逸脱が、やがて信仰と経済を支える制度へと昇華されたのです。
     世の中には、偶然から生まれた有名な商品が数多く存在します。失敗や予期せぬ出来事が、革新的な商品や文化を生み出した例は枚挙にいとまがありません。たとえば、ポテトチップスは、怒りに任せて薄く切った芋が、世界のスナック文化を変えた例です。
     これらはまさに「制度の外から生まれた構造」や「誤解が価値を生む」現象の実例とも言えるでしょう。そしてその背後には、名もなき魚商人のような、制度の外にいる者の行動があるのです。

  • イソップ寓話の教訓No.429 「波を数える男」

    制度疲労を超えて再起動する組織

    波を数える男

     ある男が、波打ち寄せる浜辺に座って、波を数えようとした。数え損なって落胆し悲しんでいると、狐がやって来て言った。
     「どうして過ぎたことを悲しむのですか?そんなことは忘れて、今ここから数え始めるべきです!」

     男は「波を数える」という行為に集中していたが、うまくいかず落胆してしまう。これは、過去にこだわることで現在の可能性を見失ってしまう危険性を象徴しています。そこへ現れた狐は、「過ぎたことを悲しむより、今から数え始めればいい」と静かに諭しています。
     この言葉は、過去への執着を手放し、今この瞬間に目を向けることの重要性を示していると言えるでしょう。
     組織においても、外部環境(市場、技術、規制など)は波のように常に変化しており、過去の構造や制度に固執することは、柔軟な対応力を失うことにつながります。
     また、男が波を数えることに意味を見出していたように、組織もまた、特定の構造や役割に固有の意味や価値を見出しがちです。
     しかし、その意味が時代遅れになっている可能性もあります。だからこそ、狐の言葉「今ここから数え始めるべき」は、組織が現状を受け入れ、ゼロベースで構造を見直す勇気を持つべきだという示唆にほかなりません。
     まさにその姿は、声なき知恵を持つ人材が、組織の混乱や停滞の中で、過去に囚われた思考をそっとほぐし、未来への再起動を促す存在として、静かに、しかし確かに浮かび上がってくるのです。
     あなたの組織にも、静かに問いを差し出す“声なき知恵者”のような存在がいるかもしれません。